15.アーニャに会いに
翌日の朝は、ベルタの心を表したかのようなうす曇り。
行く、と決めたのだから、と地味なワンピースを身にまとい、決心が鈍らない内にと急いで朝食を摂った。いつもおいしいパンケーキは、今日もおいしい。だから大丈夫だ、と根拠なく自分を励ましながら。
「ベルタ様、お出かけでしたら傘をお持ちくださいね」
「庭の散策だけよ、降り出したらすぐに戻るから大丈夫」
「また中庭で読書ですか? 直射日光の下で読むと」
「目が悪くなる、でしょう? わかっています、心配いらないわ」
過保護にも思えるリタの気遣いにじんわり胸が熱くなる。どこに行くのか、相手が誰なのか、全部話してしまいたいがなかなかその踏ん切りはつかずにいる。
書庫で新しい本を2冊借りて、ベルタは離れに速足で向かう。
鍵が開いていますように、変な場面に遭遇しませんように、変なことをするなら鍵をかけてもらえますように。
離れに着くと、どきどきしている胸を押さえてそっと扉に手をかけた。
キィ、と微かな音を立てて開く。鍵は掛かっていない。薄く開けて、耳をそばだてた。中からは音は聞こえない。
お邪魔します、と小声で囁いて中に入り、階段をゆっくりと登っていく。目の前のドアは、いつものように少し開いていた。
「マティアス?」
部屋の中からそんな声がして、びくりと身体がこわばった。
マティアスを呼ぶ、アーニャの甘い声。
マティアスが来る予定になっているのだろうか。万が一鉢合わせてしまうんだったらこのまま帰ったほうがいい。
そう思うのに、足が自分の意識とは裏腹に階段を上がるのをやめてくれない。喉は張り付いたように、声が出ない。
ドアの隙間から、そっと中を覗いた。
すると、こちらを見ていたアーニャと目が合った。
「! ベルタ! 来てくれたのね!」
嬉しそうに弾む声に、ベルタは反射的に「こんにちは」と返事して、素早く部屋の中を確認した。
アーニャのほかには誰もいない。
「もう何日も来てくれないから、どこかに行ってしまったのかと思ったわ」
ふんわり笑うアーニャに手招かれるまま、近くのソファに腰かけた。
数日ぶりに見たアーニャは、記憶の中にいるアーニャよりももっと美しく見える。
うす曇りの空から射すひとすじの陽光のように、虹のように。
「お、弟が来ていて来られなかったのです」
嘘ではない。
「弟がいるのね、うらやましいわ。ここに来るのは内緒、って約束、守ってくれてありがとう」
無邪気な笑顔。
さっきの、マティアスの名前を呼んだ時の愛らしい声を聴いた時から、ずっと胸がチクチクしている。
アーニャの笑顔が眩しくて、少し目を細めた。
「でも、寂しかったわ」
「ほかには誰も来ないんですか?」
わかっているのにこんなことを聞いたらよくない。そう思うのに、言葉が勝手に口をついて出てしまった。
アーニャは首を傾げて、
「マティアスは来るわ。仲良しだから」
「そう、ですか……」
耳の奥がぐらぐらして、アーニャの楽し気な声がひどく遠くに響くように思える。
「マティアス様は」
自分の口が、自分の意志で動かせない。勝手に言葉がついて出る。
「私の、婚約者です」
ゆっくりと震える声でそう言ったようだ。自分の声だけど、他の誰かの言葉のように聞こえた。
こんなこと言うはずじゃなかった。言うべきじゃない。
嫉妬に狂った女だと思われたくない。アーニャにも、マティアスにも、他の誰にもそんな風に思われたくない。
自分の言葉に対する後悔の気持ちからか、頬を涙がつるつる伝う。
アーニャはそんなベルタをじっと見つめていた。
しばらく、何も話さずにただ見つめていた。
白く細い指を伸ばし、ベルタの涙を拭い、無表情に首を傾げて瞳を覗き込んでくる。
「知っているわよ」
その声は、固く冷たく聞こえた。さっきまでの、ベルタの知るアーニャの声とは違う。
感情のない声。
静かな部屋に、アーニャの無機質なそれが反響する。
「だからなに?」
部屋の外で、遠く雷が鳴り始めたようだ。
黒く厚い雲が視界の端に広がりつつある、それでもアーニャの目から視線が外せない。




