10.足りなかったのは覚悟
「ベルタ様、お夕食の準備が出来たとのことですが」
リタが優しく声をかけてくれる。
一人であっても食堂で食べることが多いが、今日はなんとなくそんな気分になれずにいた。
「お部屋で食べてもよい、かしら」
「はい、お持ちいたしますね」
ありがとう、とつぶやくように返事をして、もう一度布団をかぶった。ベッドサイドに置いてある手鏡を引き寄せて、じっと自分の顔を確認する。
(ひどい顔……)
美人でもない、愛嬌もない。
白いばかりの肌、シルバーの睫毛、灰色がかった瞳。亡霊が本当に存在するとしたら、本当にこんな顔なんじゃないかと思うほどに血の気がない。眉は悲しそうに下がったままだし、色を失った唇は妙齢の女性の持つ艶やかさを感じさせない。
無意識にあの女性と自分を比べそうになって、頭の中からそれを追い出すようにきつく目を閉じた。
政略結婚、楽で良いと思っていた。
愛することも愛されることも知らず、ただ穏やかに過ぎていくだけの人生でも。
誰かのためになるのなら、それが幸せだと思っていた。
今まで、ただ存在するだけで、役に立てたことも愛されたこともない。頭が特にいいわけでもない、美しいわけでもない、引き立て役以外の何物でもない自分。それでも良いと思っていた自分に与えられた役目としての「飾りの妻」。
それを精いっぱい頑張ろうと思ったのではなかったか。
なのに、今の自分はどうだろう。
(まだ、あのお相手がマティアス様だと決まったわけではない、なんて)
姿を見たわけでもないし、声をはっきりと聞いたわけでもない。
でも、もしかしたらという気持ちだけで強く胸が痛んだ。
「お食事されれば、少し元気になられますよ」
主人の元気がないことを察してか、リタはことさら明るくそう言って温かいスープをよそってくれた。ふわりと優しいにおいが漂ってくる。
「お嬢様のお好きな、緑のポタージュですよ」
「ん……ありがとう、リタ」
「さぁさぁ、髪が緑になるくらい召し上がってください!」
一口含むと、甘いクリームと緑の塩気が染みる。おいしい。とてもおいしい。
じわりと涙が浮かんだのを、リタは見逃さなかった。
「あら! 泣けるくらいおいしかった、とマーサに伝えておきますね」
からかうようにそう言うのに、目は心配そうにベルタを見つめている。
ベルタの元気がないことで心を痛めてくれる人がいる、とそれでまた涙がにじむ。
「……おかわりいかがです?」
「いただきます……」
食欲はないけれど、食べられなくもない。胸が詰まるけれど、おなかは空いているから。身体は正直で、薄情だ。
食事を終えて、ベルタは窓の外を見つめながら考えていた。
なぜこんなに心が乱れるのか。
飾りの妻であることを覚悟してきたし、マティアスに想い人がいるかもしれないことも覚悟してきたのではなかったか。
(でも、飾りでも妻)
(マティアス様の口から、他の想い人のことなどまだ聞いていない)
本人の口から聞いたなら、素直に受け取って、アーニャのことを憎まず恨まず仲良く出来るのだろうか。
そもそも、今日あの場面に出くわす前までは仲良くやっていたのではないか。
話をするのも楽しくて、特に何をするわけでもないのに会いに行くのを心待ちにしていたほどではなかったか。
どうしてしまったんだろう。
あれだけのことで変わってしまうものだろうか。
(わかりません)
頬杖をついて、暗い外をじっと見つめる。
わからない、ほんとにそうなんだろうか。わからないふりをしているだけではないだろうか。
今この暗い夜に、マティアスはアーニャのところにいるのだろうか。それとも、自室でゆったりとくつろいでいるのだろうか。
もしかして、自分はマティアスがここに来るのを待っているのだろうか。
会って、何か話すことがあるだろうか。今まで通りに他愛もないことだけを話せるのだろうか。
ひどくみっともないことにならないだろうか。
このままでいいのだろうか。
ぐるぐると自問自答を繰り返していた。否、自問に対する答えは出せずにいた。
分かってしまったら頑張れなくなりそうで、ただ溜息だけが繰り返される。
明日はどうしよう。アーニャのところに行く? どんな顔をして?
でも、突然行かなくなったら不自然かしら、約束などしていないのだから関係ないかしら。
誰からも答えは返ってはこず、ベルタは夜更けまで外をただ眺めていた。