1.姉の出奔と妹の婚約
「お姉様が……?」
ベルタは、耳を疑った。
驚きのあまり思わず立ち上がったベルタの膝から、読みかけの本が落ちてぱたりと閉じる。
「いなく、なってしまったの?」
急いで駆けてきたのだろう、侍女は息を切らしたままこくこくと頷き、小さな紙片をベルタに差し出した。微かに震える手からそれを受け取ると、震えまで伝染したようでなかなか開くことが出来ない。
「お部屋の机に置かれていたものです」
「ありがとう。……」
『愛する妹、ベルタへ
幸せになります。
どうぞ、あなたも。 フィオーネ』
簡潔な文が、そこには記されていた。
ゆっくり三回読み、裏にして表にして陽光に透かして、もう一回読んだ。
「これだけ……?」
「はい! それから、お嬢様のお気に入りでいらした白の帽子と、バッグがなくなっていて、」
混乱しているようで、侍女の視点は定まらない。
おろおろしている侍女と手紙を交互に見ていたら、少し落ち着いてきた。自分より慌てている人がいると、逆に冷静になれるのはなぜだろうか。
まだ昼下がり。散歩に出ていたり書庫にいたり、お茶会に行っている場合もある。部屋にいなかったとしても不思議はない。けれど、この手紙と、外出用の帽子と鞄がなくなっていることで胸騒ぎがする。いや、何も残されていないまま姉だけが消えているほうが、問題かもしれないけれど。
ただ、今日は誰も外出はしないようにと父に言いつけられていたはず。だからベルタも、お気に入りの四阿ではなく部屋にこもっているのだから。
「このことは、他には誰かに言った?」
「いえ、まずはベルタ様に、と思いまして。お手紙がベルタ様宛でしたので」
「そう……ありがとう」
すとん、と椅子に腰を下ろして考える。
――話す? 誰に。父に? 兄に?
とりあえず、自分も姉の部屋を見に行こう。
再度立ち上がった時、軽いノックとともにドアが開いた。
「ベルタ、入るぞ」
という声と同時に、もう入っている。いつもながらせっかちな父である。
椅子から立ち上がり、軽く会釈をして応える。侍女は邪魔にならないよう、音を立てずに部屋を出て行った。
「いらっしゃいませ、お父様」
「フィオーネは一緒では……ないか」
ベルタの部屋をぐるりと見渡し、ふむと鼻を鳴らして父は近くのソファへ腰かけた。
姉の出奔について訊きに来たのではなさそう。少し、こっそりと胸を撫で下ろした。
父がその長い足を組み、膝の上で白い封筒をパタパタとはためかせているのに気付き、ベルタは微かに目を見開いた。
白百合の透かしの入った封筒に、紋章の入った封緘。しかも、銀の蝋の。
まぎれもなく縁組の申入れの、結婚の申込みの手紙だった。
ベルタの視線に気付き、侯爵は手を止めて、いたずらっぽく笑った。
「気になるか?」
「いえ……はい」
「お前も年頃だしな」
「お姉様宛でしょうか?」
姉は、これを察して逃げ出したのだろうか。
いや、本当に逃げたのかどうかもよくはわからないけれど、でもさっきの父の口ぶりではまだ姉にもこの手紙のことは伝えていなさそうだった。何より、封緘はまだ開いていない。
「うーん、……そうだな。ベルタ」
「はい」
ゆっくりと立ち上がり、父はベルタの肩に優しく手を置いた。
「婚約、おめでとう」
「え、」
「お相手は、ギルフォード伯爵のご長男。良縁に恵まれたな」
笑むように細められた父の目は、有無を言わさないような強い光をもってベルタを射抜くように見つめている。
反射的にベルタは深く膝を折り、「ありがとうございます」と頭を下げていた。
◇ ◇ ◇
貴族の次女は、不遇である。容姿に恵まれていなければ、なおのことだ。
ベルタ=フォン=ホイットモーは、侯爵家の次女である。上には長女・長男・次男がおり、下には三男がいる。さらには、腹違いの兄と、妹が一人ずつ。本流傍流あわせて7人の中にあって、ベルタは静かに生きてきた。
毎年、誕生日は創国を祝う花祭りにかき消されてきた。時期柄、仕方がない。ここまではいい。
社交界デビューは三男である弟と一緒だったために目立たず、弟や兄とダンスを踊り、それ以降はおいしい料理を食べながら音楽を楽しんで過ごした。
目立たずおとなしく慎ましやかに。ベルタはそうして暮らしている。性格的にも社交的ではなく、貴族のご令嬢とお茶会に興じるよりも、一人でお茶を飲みながら本を読んだり絵を描いたりするのが好きだった。華やかな社交界よりも、静かな庭園を好んだ。
“侯爵家の生きた亡霊”
“壁の花というより花柄の壁”
と口さがない人々に揶揄されていることも知っていた。うまいことを言いますね、と感心こそすれ、それに対して否定も憤りもしない。まさにそんな感じだもの、と思う。
ただ、少し気がかりなことはあった。
貴族の娘といえば、政略結婚が常とされている。もちろん、激しい恋愛をするのであれば話は別だが、そんな気配も希望もないのだから、たぶん自分は政略結婚をすることになるだろうと確信に似た予想をしている。
でも、亡霊だの壁だの言われている私に、そんな話がくるのかしら、と。
出来るだけ良い縁談を捕まえないことには、ここまで育ててもらった恩返しが出来ないというもの。
そうは思うのだけど、だからといって自分の良くない評判を払拭するような生活を送ることが出来ないまま、今日まで来てしまったのである。
亡霊といわれる一因となっている、プラチナブロンドのこしのない直毛。姉のもつ、陽光に弾けるキラキラした金の巻き毛とは対照的だった。
(ちょっと蜘蛛の巣にも似ているわ)
細く色のない髪をくるくると指に巻き付けながら、べたつかないだけマシだけど、とため息をつく。
「わたくしが、結婚……」
お顔もおぼろげにしか思い出せない伯爵家の長男、マティアス=フォン=ギルフォード卿に、それから父に。
不安よりも、ふたりへの申し訳なさで胸が詰まるような思いがした。
「お姉様ではなく、わたくしへ、なのですか?」
美しく可憐で心優しい姉、フィオーネ。
誰からも愛される、社交界の華。父の、家族の自慢の麗しき令嬢である姉ではなく。
父はじっとベルタを見つめ、目をやさしく細めた。
「あぁ。先方は、お前にこれを渡したいそうだよ」
ベルタの手を取り、白百合の封筒をそっと乗せ、父は自分の大きな手で包んだ。
妹の方が先に結婚が決まるとなると姉のプライドを傷付けるかもしれないから、フィオーネに先に話しておきたかったんだが、と父は笑った。
「受けるか?」
断るという選択肢など、元々ない。自分の結婚は、父が決めるものであるとずっと思ってきたからだ。
まして、先方が自分を指定しているのであれば、なおのこと。わたくしで良いのかしら、とは思うものの、嬉しい気持ちがじわじわとこみあげてくる。
「……わたくしでよろしければ」
「即答してよいか?」
いたずらっぽく笑う父に、ベルタも笑顔を返した。
「はい、喜んでお受けいたしますとお伝えください」
父は、そうかと笑って、大きな掌でくしゃくしゃとベルタの頭を撫でた。父の手が離れると、銀色の髪はさらりとまっすぐに戻る。
「素直な良い子だ」
「――ありがとうございます」
父に褒められたのは初めてかもしれない、と思うと、ベルタの頬は自然な朱に染まった。