小汚い宦官
寝る前に呂岳が教えてくれたところによると、この侍医院は朝廷と後宮の病人怪我人を治療する部署。医官十名と見習いの呂岳、そして雑用係のわたしという構成らしい。今夜は通常の往診に加えて危篤の急病人が出たということで、医官はみな出払っていたようだ。
今までは新人の呂岳が雑用係を兼ねていたが、次の学習に進むために、新たに雑用係を雇うことにしたのだという。
「まあ、とりあえず今夜はゆっくり休め。明日からさっそく仕事が始まるから」
呂岳はそう言って、ぽいと布の塊を放ってきた。
広げると、同じ衣類二着と肌着類であった。雑用係の制服は、呂岳が着ている黒地に銀の模様が入った衣装とは違って、肌触りの悪い麻やくず糸で編まれた灰色のものである。浴衣のような踝まである丈の羽織と、腰に巻く帯、その下に履くズボンというセットだ。
そして肌着は、いわゆるフンドシだった。
(……ま、着られればなんでもいっか)
もとよりファッションや可愛らしい下着類に興味はない。
丹薬と酒がある人生なら、フンドシだって何ら苦ではない。
「寝床は医院裏手の倉庫を使え。寒くて狭いけど、この建物の仮眠室は医官しか使えないから我慢してくれ」
「どこでもいいよ。わたし、枕が変わっても全然平気なタイプだから」
「だろうな。お前みたいな肝の太いやつはどこでも生きていけそうだ」
倉庫に案内してくれたところで呂岳は医院に戻っていった。
ふう、と一息ついて倉庫を見渡す。
見渡す、と言っても六畳ほどの倉庫は一目で全貌が把握できるけれど。
箒や雑巾といった掃除道具から、埃をかぶった薬研や瀉血器が乱雑に転がっている。そして壁際に申し訳程度に開いているスペースに、くたびれた寝具が横たわっていた。
とにかく眠いので、さっそく布団に潜り込んで目をつむる。
ぼろぼろの布団はカビ臭いし、極薄の敷布団はまるで冷たい床に寝ているよう。でも、そんなことが気にならないくらいに、わたしの心は高揚していた。
(この国でなら、丹薬を完成させられるかもしれない。いや、してみせる)
明日から頑張ろう。
そう強く決意して、わたしは深い眠りに落ちていった。
◇
(――――――――!?!?)
突然、ものすごい量の冷たいものが上半身に浴びせられた。
気持よく寝ていたのに、一体何が起こったのか!? 慌てて飛び起きると、目の前には逆さまになった桶を持つ男がいた。
「――ようやく起きましたか。三杯かけてようやく起きるなんて、嫌になるぐらい鈍感ですね」
「なに!? どういうこと? あんたは誰?」
男はとても爽やかな笑みを浮かべているけれど、目が全く笑っていない。服装は呂岳と同じ黒いものだけど、刺繍が銀ではなく金色の糸である。
動転しているわたしに、彼はくいっと口角を上げて微笑みかける。
「雑用係が起きてこないので、起こしに来て差し上げたのですよ」
「だからって、なんで水をぶっかけるのよ!」
起こしに来てくれたことはありがたい。でも、水をぶっかけるなんてびっくりするじゃないか!
「小汚い宦官に触れたくありませんでしたので、こうするしかないでしょう」
「小汚い、宦官」
思わず自分の身なりに目を落とす。
昨夜呂岳がくれた粗末な衣類に、カビが生えた布団。今やそれらはびしょ濡れで、一段と汚く見える。わたし自身はお風呂に入っていないため長い髪は脂っぽくて寝ぐせでぐちゃぐちゃ。顔も寝起きなのでひどいもんだろう。
(確かに小汚い)
なるほど、これでは触れたくないという人もいるだろう。清潔を重視する医療者であれば尚更だ。わたしの方が間違っていたと、考えを改める。
「あんたの言う通り、わたしは汚いね。起こしに来てくれてありがとう。疲れていたから寝過ごしちゃったよ」
「…………」
ごめんごめんと謝りながら布団からはい出し、青年の目の前に立つ。
(いいところの坊ちゃんみたいだ)
呂岳は短髪で真面目ないでたちの青年だったが、一方この男は涼やかな顔つきに長い髪を後ろで一つに結わえた風貌。良家の若旦那という印象である。歳は、わたしと同じくらいで二十代後半に見えた。
「で、ごめん。何をしたらいいの? 昨日の夜遅くに来たからさ、仕事については何も知らないんだ。あ、それより朝ご飯は?」
ぐう、と音を上げた腹を抑える。考えてみれば、昨日の昼頃から何も食べていない。
「…………あなたの食事は昼の一度です。昼になったらこの倉庫の入り口に、盆が届けられます」
「一日一食なの!? それはちょっと厳しいな。あ、お酒があれば我慢しますけど」
禅寺の僧侶だってもっと食べてるだろうよ。
まあでも、酒も食事のようなものだから、支給があるというのなら一日二食になるので耐えられなくもない。
期待を込めて男の整った顔を見つめる。
――しかし、現実は非情だった。
「酒類の提供はありません」
ぴしゃりと宣告されて、一気にわたしの心は沈む。
追い打ちをかけるように男は続けた。
「あなたの仕事の話をします。まずはここの倉庫にある物品の手入れをし、掃除してください。それが終わったら洗濯。それが終わったら破れた衣類や布の補修。それが終わったら――――」
「あーごめんごめん、一度に覚えきれないや。まず掃除だっけ? それが終わったら、また聞きに行くよ。あんたの名前は?」
ひらひらと手を振り、キャパオーバーであることを示す。
青年は柳のような眉にわずかに皺を寄せたが、すぐにまたわざとらしい笑顔を浮かべる。
「わたくしは常敏といいます。よろしくお願いしますね」
「常敏ね。わたしは海里。よろしく」
握手の手を差し出すも、華麗にスルーされる。
そうだ、わたしは小汚いんだった。
「ねえ、お風呂はどこ?」
「…………あなたが使える風呂はありません。人目に付かない場所で水浴びをして、清めてください」
「うわぁ、お風呂ないのかぁ!」
風呂は無いから行水せよ、とのことである。
夏はいいけど今の季節は厳しいぞ、と身を震わせる。嫌だけど仕方ない。無いものは無いのだから……。
(最悪、しなくても死なないからな。面倒だし)
そりゃあ身ぎれいにするに越したことないけれど、無理する必要もない。多少汚くたって仕事はできるし、丹薬の研究もできるのだから。限りある時間とエネルギーを、気の向かないことにかけるのはよくないと思う。
「もう質問はよろしいですか」
常敏の問いかけに、はっと我に返る。
「あっ、うん。じゃあ、まずはこの濡れた布団を干してから仕事に取り掛かるよ。常敏、ありがとね」
ただでさえカビているのだから、早く干さないともっと状態が悪くなってしまう。
水を吸った重たい布団を抱え上げ、常敏の横を通って屋外に出る。
「…………チッ」
何やら舌打ちのような音が聞こえた気がするけど、気のせいだろう。常敏みたいな良家の若旦那が舌打ちなんてするはずがない。
(あーあ。布団重いよう。早くお昼ご飯にならないかなあ)
外はほのかに暖かく、楽し気に鳥がさえずっている。
晴れ上がった空を見上げて、心からそう思った。
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