新人医官・呂岳
――寒い。
白衣の上からぎゅっと両腕を抱きしめる。
山は紅葉していなかったことから、たぶん冬から春になるあたりだと思うけど。なにせ真夏の日本から来たわたしは、半袖シャツ一枚という軽装備なのである。
案内の男は早々に帰り、わたしは侍医院だという建物の前に取り残された。暗くてよく分からないが、けっこう立派な平屋に見える。
(灯りはついているから、中に誰かいるみたい。早く中で暖まりたい)
チャイムは――当然ないから、木製の扉をドンドンとノックする。作法が分からないけど、まあ、誰か来たことが伝わればそれでいいだろう。
すると読み通り、中から眼鏡の青年がひょっこり顔を出した。
「えっ。あなた誰?」
「いや、お前が誰だよ」
ああそうか。確かにそうだよな、と思う。訪ねてきているのはわたしなので、相手方に誰と問うのは間違っていた。今日はいろんなことが起こりすぎているので、脳が疲れているのかもしれない。
改めて挨拶をする。
「ここで働くことになった海里です。よろしくお願いします」
「あー。雑用係か。入ってくれ」
一歩足を踏み入れると、中は暖かかった。生薬のかぐわしい香りがふわっと全身を包み、実家に帰ったときのような心の安らぎを感じる。
広い室内にはいくつかの長テーブルが配置されており、その上には調合中らしき漢方薬や薬さじ、舟といった調剤道具が雑多に置かれている。壁一面は木製の棚が並んでいて、金属の輪っかが付いた無数の引き出しには、その中に入っている生薬の名前が書かれている。
「すごい……! これが古代中国の生薬棚……!!」
なんという贅沢な光景だろう。勤め先の漢方薬局も本格的だけど、やはり本場はオーラが違う。
目を輝かせていると、迎え入れてくれた青年が釘を刺す。
「勝手に触るなよ。素人には危険なものもあるからな。それよりお前、変な格好だな。そんな服は初めて見た。…………おいこら、聞いているのか?」
引き出しに張り付いて眺めていると、あることに気が付く。
(知っている生薬が大半だけど、知らない名前もちらほらとある。……そりゃあそうか。国や時代が違えば、生えている薬草も違うはずだし)
たとえば、黄芩、黄柏は知っているけど、黄精は初めて見る名前だ。また、知識としては知っているけれど扱ったことのない夏枯草、山帰来もある。どうしよう、わくわくが止まらない……っ!!
「ねえねえ。仕事はちゃんとするからさ、時間ができたら生薬をいじってもいい?」
こんな宝の山を前にして、雑用だけしていろなんて無理な話だ。
振り返って、初めてまともに青年の顔を見た。
「いや、駄目だ。というか、俺にその決定権は無いから蘇先生に聞いてくれ」
「あんた、真面目なんだね」
発言の内容通り、目の前の青年は見るからに融通が利かなそうな風貌であった。
背はわたしより高く、百七十五ほど。黒い衣服を着崩すことなくしっかり着用しており、やや細身。眼鏡をしており色白である。肌艶や声の感じから、年齢は十代後半ではないかと思われた。若造である。
――それより気になったのは。
「ねえ、その傷どうしたの?」
青年の右腕には生々しい火傷の傷があった。水ぶくれができた皮膚から新鮮な肉が露出し、真っ赤に充血している。それは受傷してからさほど時間が経っていないことを示していた。範囲としては握りこぶし程度だが、とても痛そうだ。
「ああ、これは……ちょっと。大丈夫だから気にするな」
さっと傷を隠して、平然を装う青年。
――でも、わたしには理由が分かっていた。
「それ、酸棗仁を炒るときに火傷したんでしょう。誤魔化すのはヘマがばれると先輩に怒られるから?」
「……! 何故それを」
青年は驚いて表情を崩すが、答えは空気を吸うより簡単な話である。
(だってこの部屋。炒った酸棗仁の香りが充満しているじゃない)
酸棗仁とは、クロウメモドキ科サネブトナツメの種子である。
不眠にいいとされる酸棗仁湯に使われる生薬であり、炒ったものを潰して使う。
男の傷は新鮮だ。また、炒った酸棗仁の香りは濃厚である。この二つの状況から、彼は酸棗仁を炒るときに火の扱いをミスして火傷をしたのだと推測できた。
(平気だって言うけど、お肉が見えちゃってるからなあ)
放置していたら、感染を起こしそうな気もする。ここに抗生剤の点滴なんて無いだろうし、感染がもとで運悪くポックリ逝かれても後味が悪い。
自分で手当てしないのは、まだその知識がないからだろうか。若いし入りたての新人なのかもしれない。先輩にも言えないし、自分で手当てもできないとなると――――
「腕、貸して。手当てするから」
青年のために申し出たのに、彼はあからさまに嫌な顔をした。
「ええ? 嫌だよ。これぐらい、放っておけばいいんだ」
「いいからわたしに任せて。大丈夫だから」
「いや、お前はただの雑用係だろ」
なおも嫌がる青年を説得する。
「あんたはとにかく氷で患部を冷やしてじっとしてて。その間に薬を作るから」
「あんたじゃない。俺は呂岳だ。…………氷なんて高級品、使えない」
ほんの少しだけ態度が軟化したことを感じる。平気そうな風を装っているけれど、多分、相当痛いのだ。
というか、氷って高級品なのか。そっか、冷凍庫とか無いだろうし、そういうもんか。
「じゃあ呂岳。水で絞った布でも当てときなさい。あ、清潔な布にしてよね!」
呂岳が渋々といった様子で手拭いを濡らしに行くのを見届けて、さっそく作業に取りかかる。
「紫雲膏があればいいんだけど」
紫雲膏とは火傷に対する良薬だ。化膿を抑え、皮膚の再生を促進する働きがある。
壁にずらりと並ぶ引き出しを眺めていると、紫雲膏はないが潤肌膏があった。
潤肌膏とは、紫雲膏から豚脂を抜いたものである。おおまかな効き目は同一なので、これでも問題はない。
引き出しから潤肌膏の小瓶を一つ手に取り、へらで包帯に薄くのばしていく。紫根に由来する紫色の軟膏はいつ見ても美しい。
濡れ手拭いを腕に当てて待機している呂岳に、これを巻くように促す。
「わたしは不器用だから、自分でやって」
「……お前、薬に詳しいのか? いやにてきぱきしてるけど」
これまでの迷いのない動きを見て、どうやら呂岳はわたしがハッタリを言っているのではないと感じとったらしい。
しかし、何と答えるのがいいのだろうか。
(日本から来た薬剤師です。なんて言ったって信じてもらえるわけないし)
馬鹿なわたしでも、それくらい想像がつく。
かと言って何も知らない素人ですという設定もよくないだろう。なぜなら、治療を受けてもらえなくなるからだ。
少し考えたものの、悩むことが面倒になってきたので、中間をとった返事をする。
「故郷でちょっとかじってたことがあって。その縁で、侍医院での仕事を希望したってわけ」
「ふぅん」
呂岳は納得した。素直で真面目な青年である。
包帯を腕に巻く手つきも丁寧だし、修行を積んだら良質な医者になりそうだ。
なんとなく微笑ましい気持ちになりながら、次の処方に思考を移す。
「……あとは温清飲を作っておこう」
あの火傷は、きっと痕になってしまう。でも、温清飲を飲んでいれば多少マシになるだろう。
温清飲というのは、皮膚を潤し乾燥を治す四物湯と、熱感や炎症を静める黄連解毒湯の合方だ。つまり、急性期ではなく慢性期症状に効くものだ。これも飲んでもらって、少しでも綺麗に傷が治ってほしい。
「地黄四、当帰四、芍薬三、川芎三、黄連一.五、黄芩三、黄柏一.五、山梔子二」
構成生薬と分量を確認しながら調剤していく。
集中しすぎるあまり、呂岳がこの様子を食い入るように見ていたことなど、全く気が付かなかった。
「――ほら、できたよ。飲み方くらいは分かるよね? 煮出したやつを三等分して、朝昼晩と飲んでよね」
とりあえず二週間分作った温清飲を呂岳に手渡す。彼はそろりそろりとそれを受け取り、目を輝かせた。
「あ、ありがとう。海里、お前ってすごいんだな!」
「いーえ。どういたしまして。あっ、もしただれてきたら苦参十を煮た湯で洗うといいよ」
すっかり感じ入っている呂岳。
素直でかわいいやつめ。と思ったのは一瞬。緊張が切れたところで一気に疲れが押し寄せてきた。
お礼はいいから、それよりもいい加減あれが欲しい。今日一日いろいろなことが起こりすぎたから、もうくたくたなのである。
どかっと椅子に座り、力なく頬杖をつく。
「ねえ。お酒、ないの? 一杯やらないとそろそろ死にそう」
「酒!? あるにはあるけど、俺のじゃないからやれないよ」
「けち! 少しくらいならバレないよ! ね、一口でいいからさっ!」
「無理だ。俺は共犯になりたくない」
断固たる拒絶を見せる呂岳。そうだ、この男は真面目なんだった。
(明日、お酒の持ち主に頼んでみるかぁ)
酒のない人生なんて考えられない。この侍医院で暮らすことになった以上、酒の入手経路も確保しておかねば。
(なんでか今は呂岳しかいないけど、きっともっとたくさん人がいるに違いない。どんな感じなんだろう)
眠気でくっつきそうな瞼を必死に押し上げながら、ぼんやりと考える。
(まあ、みんな薬好きの医療者だし、問題ないよね。呂岳もいいやつだし、平気平気)
そう結論付けて、呂岳に案内された寝床に入ったものの。
翌朝、桶いっぱいの冷水を浴びせられて起きることになるとは、全くの予想外であった。