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偽宦官②

【呂岳目線】


侍医院に戻ると、もう一人の当直医官はいなくなっていた。往診の要請があったのだろう。


(都合がいい。常敏さんに話が回ると面倒なことになるからな)


診察台に海里を横たえ、ふうと肩を下ろす。水浸しの人間を運んだため自分の衣類も濡れてしまっている。それは欬欬殿も同じだった。


「欬欬殿。ありがとうございました。もう大丈夫です。あとは俺が世話しますから、欬欬殿は戻って大丈夫ですよ」

「ありがとうございます。では、わたくしはこれで」


戸口まで欬欬殿を見送り、再び室内へ戻る。


(まずは着替えか)


海里は気を失っているものの、命に別状はない。乾いた着物に着替え、火の側で温まればじきに目を覚ますだろう。

こういうときのために着替えは何着か備えてあるから、海里の背丈に合いそうなものを見繕う。


「ったく。ほんとうに抜けてるやつだよなあ。酒に酔って池に落ちるなんて」


池に駆け付けた時から、こいつからは酒の匂いがぷんぷんしていた。仕事をさぼって飲酒し、あげく池に転落するなど愚鈍の極みだ。これで死んでいたら、海里の親御さんが哀れすぎる。


「七淫子はたいへんだなあ。怠け者の兄貴に愚鈍な海里が上司でさ」


店番を押し付けられているであろう七淫子に同情しつつ、海里の濡れた着物を脱がせていく。


「なんでサラシなんか巻いてるんだ? 変なやつだな」


宦官なのに上半身にサラシを巻いている。なんだろう? 怪我でもしたんだろうか。そんな話は聞いていないし、薬をせびられてもいないけれど。


まあ変人の海里だからそういうこともあるか、と気にせず着替えを続ける。

――――と。俺はものすごい違和感を覚えた。


(…………)


いつのまにか心臓がものすごい速さで拍動している。

手は小刻みに震え、目は今見ているものが信じられないとでも言っているかのように見開かれる。


「…………おまえ。もしかして、女なのか……?」


俺は医官だ。若手だけれど、男女および宦官の判別を間違えることは絶対にない。

でも、今視界から入っている情報が、脳内にある前情報と全く異なっている。目の前にいる人間は女だ。でも、海里は宦官だ。噛み合わない二つの情報に、脳が熱を持ち混乱する。


「そんなことがあるのかよ……」


事情はわからない。しかし、俺は客観的事実を受け入れざるを得なかった。

海里は女だ。どこからどう見ても宦官の身体ではないし、ましてや男でもないのだから。


「…………」


この気持ちはなんだろう。悲しみなのか、驚きなのか、混乱なのか。心に穴が開いたような感覚もする。いっそ虚無なのかもしれない。

形容しがたい気持ちと、ずうんと重くなった心を抱えながら、粛々と着替えを進める。


(ばれたらただじゃ済まないぞ、海里)


――しばらくして湧いてきたのは、怒りと心配の感情だった。

炎麒城は皇帝とその妻子が住まい、黎の政治を司る場所。働く人間の数は多いが、きちんと身元を確認された者だ。まれに人攫いに売られてくるような場合もあるようだが、もちろんそれは違法。そういったことがばれたり、経歴を詐称して入り込んだ者には厳格な処分が下される。

追放で済めばよいが、牢に入れられることだって十分に考えられるのだ。


「海里は間抜けだからな。騙されたのかもしれない。それか、悪運の強いやつだから、流れに身を任せてここに辿り着いたってこともありそうだな」


着替えを終えて、衣類の上から毛布をかけてやる。春も中ごろではあるが夜はまだ冷える。

椅子を診察台の隣に持って来て、どっかりと座る。ああ、なんだかものすごく疲れた。

海里はすうすうと息を立てている。顔色はかなり血色が改善されており、気持ちよく寝ているかのような顔だ。

太腿の上に頬杖をつき、じっとその顔を眺める。


(……よくよく見れば、女のようにも思えてくるな)


元男性にしては長い睫毛。肌のきめは細かく、穢れのない白さだ。頬はほどよくふっくらしており、不自然に丸々としている宦官のそれとは異なる。長い髪もいつも適当に結わえている割に艶があるし、寝息が漏れる薄い唇は女性のそれだ……――。


まさか女性が侍医院に勤めに来るとは思わない。求人していたのも宦官だから、当然宦官だろうと思った。海里は背も高いし、声も中性的だったから。湯屋の宦官を示す制服を着用し、ざっくばらんに髪をまとめた風貌では、まさか女だと思う者はいないだろう。

かといって、ひとたび女性だと認識してしまうと、もうそうとしか思えないから不思議だ。まさに海里の見た目は絶妙な線なのだ。


(他に誰がこのことを知っているんだ?)


一緒に湯屋で暮らしている七淫子は知っているんだろうか? 間抜けな海里のことだから、どこかでボロが出ていてもおかしくない。侍医院にいたとき他の者にばれなくてほんとうによかった……。


「まったく。おまえって、ほんとうに規格外だな」


目の前の女性はついに唇の端から涎を流し始めた。布を持って来て、それを拭ってやる。


――――命が助かってよかった。年齢は十も上だけれど、海里は危なっかしい。目を離すと何をしでかすかわからないけれど、憎めない可愛いやつだ。

ばちんと軽くおでこをはじくと少々痛そうに眉を動かした。しかし、目を覚ます気配はない。


「生きろよ、海里。炎麒城はおまえが思っている以上に恐ろしい場所だ」


海里が苦しみ、辛い顔をしているのは見たくない。こんな平和な人間には、好きなことをして穏やかに過ごすのがお似合いだ。


もう一人の当直医官が戻る前に、湯屋に運んだほうがいいだろう。

欬欬殿はもういないので、一人で海里を背負う。もちろん重たいが、女性とわかった今、不思議と先ほどよりも軽く感じた。


――俺はこのときすっかり忘れていた。海里と関わったのは侍医院と湯屋の人間のみだと思っていた。少なくとも侍医院のなかでは海里が女だという話は聞かないし、湯屋も実質真面目な七淫子一人だから安心しきっていたのだ。


しかし、実はもう一人いたのだ。熱で倒れた海里を運んできた御方――皇太子・趙銀様が。

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