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偽宦官

【呂岳目線】

 静かな夜だ。

 侍医院に入門して約二年。とうとう当直を任されるようになり、半一人前の扱いをしてもらえるようになった。

 ようやく自分もひとりの太医として動けるようになってきた。患者と向き合い、病と向き合う日々は充実そのものだが、自分の腕の至らなさに落ち込むことも多い。まだまだ勉強と経験が必要だと痛感している。


(とはいえ、海里の花粉症の薬には助けられた)


 手元の医事日誌に目を落とす。

 連日何十件も鼻水やくしゃみ、目のかゆみで往診依頼が来ている。例年は薄荷湯で対応してきたものの、効果はいま一つ。効果は気休め程度で、ひたすら症状が治まるのを待つしかないと指導してきた。

 ところが今年はどうだろう。海里が教えてくれた「小青龍湯」と「葛根湯加川芎辛夷」を処方してみたところ、ものすごい効き目を表した。診療の記録簿である医事日誌には、


『崑崙泉のごとく湧き出づる鼻汁ぴたりと止む』

『顔の熱感に著効す』

『鼻閉夜明けのように澄み渡り開通す』


 ――――といった喜びの記録があふれている。

 これはまさに異常事態だ。飛ぶように薬はなくなり、原料の生薬を毎日追加発注している状態だ。

 蘇先生の指示により、海里から教えてもらった処方は俺が考案したということになっている。海里のことをよく思わない常敏さんを刺激しないように、ということだった。

 若手ながら名処方を考案した、ということで院内での俺の評価は爆上がりしている。ほんとうは海里の手柄なのだから、非常に居心地が悪い。


(――それにしても。常敏さんって、結構えげつない一面があったんだな。気が付かなくて、海里には悪いことをした)


 棒打ちの刑のとき常敏さんに感じた違和感。基本的には温厚で優秀だが、裏では相手によって態度を変え、歯向かう格下には容赦しない。そんな二面性があることに気が付くには時間はかからなかった。

 なまじ自分の家が名家(それでも常敏さんの家には劣るけれども)なものだから、すっかり騙されてしまっていた。

 いい人だと思って、海里には自分ではなく常敏さんを頼るように伝えたこともあった。そんなことを言わなければ、二人の関係性は悪化しなかったし、海里はまだ侍医院にいられたのかもしれない。

 ふとした拍子にそう思い出しては、後悔の念に駆られている。

 だから、海里の少々無茶な願い事も、聞いてやらねばいけないと思っているのだ。


 ――――次のページに手をかけたところ、けたたましく扉が叩かれた。


「太医! 宦官がひとり御庭池に落ちました! 引き上げたましたが、ぐったりして動きません!」

「池? こんな時間にどうしてそんな」


 ちらりと時計に目をやれば、日付が変わったところだ。急いで立ち上がり、扉を開放する。

 報告に来ていたのは白い髪の宦官だった。ひょろりとして背が高く、狐のように目が細。この特徴的な風貌に、着用している衣類が示すのは――


「白貴人のところの欬欬殿か」

「これは呂岳殿でしたか。夜分に申し訳ございません」


 丁寧に腰を折る欬欬。


「しかし、宦官が命を落とすことなど特段珍しいことではないはず。欬欬殿自ら連絡に来て下さるなど珍しい。重要人物なのでしょうか?」


 宦官が池に落ちたなんて、言っちゃあ何だがよくある話だ。何万人もの人間がひしめく炎麒城では不審死も多く、宦官が池に落ちたというくらいで侍医院に駆け込む人などいない。

 通常は、仲間によって助け出されて連れて帰られるか、そのうち死体となって発見されるかの二択だ。なぜなら侍医院にかかるには銀子が必要だ。気の毒だが、金銭に困窮している大部分の宦官は治療を受けられないのである。


 欬欬殿は白貴人に仕える首領宦官だ。そのような人物自ら報告に来るとは、何か理由が無い限りあり得ない。


 欬欬殿も、俺の質問の意図を正しく読み取ったらしい。


「それが、転落した宦官は湯屋の海里殿と見受けます。海里殿は侍医院に勤めていたと聞いております。ですからご報告に参りました」

「なんだって!?」


 一瞬にして事情が変わった。

 海里だというのなら、なにがなんでも助けなければいけない。欬欬殿に案内を頼み、急いで現場に向かった。


 ◇


 今は湯屋の営業時間内のはずだ。

 番台にいるはずの人間が、どうして池に落ちているのか。


(サボったな)


 あいつらしいと言えば、そうだけれど。

 当直が俺じゃなかったら――たとえば常敏さんだったら。「宦官が溺れた? 放っておきなさい」と一蹴されて見殺しにされていたと思う。海里はほんとうに運がいいのか悪いのかわからない。


 御庭園の池は結構深いと聞く。大事に至っていないといいのだがと思いながら広い炎麒城を駆け、現場に到着した。

 蓮の葉が浮かぶ大きな池のすぐ脇、玉砂利の上にびしょ濡れで横たわる者があった。


「海里!」


 顔面は蒼白。濡れた衣服に体温を持って行かれたのか、肌は氷のように冷たい。息は――――


「…………あるな。よかった、間に合った」


 胸に手を当てれば微かな上下運動を感じた。

 隣にいる欬欬殿の緊張が和らぐ。彼もまた安心したようだった。

 とにかく、ここではできる手当てが限られる。侍医院に運んでまずは濡れた衣類を替えないと。体温が下がりすぎると体に毒だ。


「欬欬殿。海里を侍医院に運びたいので、手伝っていただけないだろうか」

「わかりました。では、わたしは左側を支えましょう」


 海里は細身だが、水をたっぷり吸った湯屋の制服は重い。二人がかりで海里の両脇を支え、侍医院に連れて帰った。

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