襲撃
お互い無言で月を見上げ、盃を傾ける。しかし気まずいということはなく、むしろ居心地よく感じるものだから不思議だった。皇帝の寵を競う後宮に、こういう妃嬪様もいるのだなあと。
小一時間ほど経ったところで、腥臥さんに悲しいお知らせを告げる。
「――――お酒、もう空っぽ」
「そうか。あっという間だったな」
一切酔った様子のない腥臥さん。わたしも弱くはないけれど、少し頭がぽかぽかしてきているので、相当強いのだと思う。
そういえば、と思い出す。
「邪払飴の件はごめんね。欬欬さんに作り方を教えたんだけど、食べられた?」
ああ、と腥臥さんは笑う。
「律儀に酒を返してもらって悪かった。そのまま貰っておいてもよかったのに」
「ええっ! そうなの。なんだあ、惜しいことした」
なにしろ腥臥さんの酒壺は他と違って嗅いだことのない香りがしたのだ。きっとわたしの知らない種類のお酒なんだろうなと格別楽しみにしていた。返さなくてよかったのかあ……。
うなだれていると、腥臥さんの雅な声がわたしを慰める。
「折を見てまた欬欬に持たせよう。お主はたいそう酒が好きなようだから」
「ほんと!? ありがとう!」
この瞬間、わたしは腥臥さんがいっそう好きになった。なんだろう? 姉がいたらこんな感じに甘やかしてくれるんだろうか。気の置けない距離感に酒好きという共通点、そして寛容なところはまるで家族のようだと思った。
実際のところ、腥臥さんはわたしより年下だと思う。でも、圧倒的なオーラや悠然とした佇まいが彼女を何倍にも大人に見せていて、妹ではなく姉のように感じさせるのだ。
「それより海里。お主、冬妃に喧嘩を売ったそうではないか」
「ひえっ。もう情報が伝わってるの?」
ほんの数時間前の出来事が、ほかの宮殿に暮らす妃嬪にも伝わっているなんて。後宮の情報網はいったいどうなっているのか。
「あやつは邪悪だ。気を付けるように」
くすり、と袖を口元にあてて笑う腥臥さん。
ご忠告はありがたいけれど、面白がっているのが丸わかりだ。
「もう。他人事だと思って! わたしってものを知らないから、冬妃にも悪いことしたよ。近いうちに謝りに行くつもり」
冬妃のせいで間接的に腥臥さんの酒を失ったけど、直接嫌がらせや被害を受けたことはない。あばずれ女だなんてやってしまったことについては、わざとではなかったとはいえ、やりすぎだと思っている。
「人がいいのだな、お主は」
「そうかなあ。普通だよ」
人がいいだなんて、今まで言われたことがない。怠け者でのろま、変わっている、奇人。そういうふうに言われて来たし、自分でもそうなのだろうと思っている。
酒もなくなったし、腥臥さんのお陰でリフレッシュもできた。七淫子をいつまでも一人で頑張らせるわけにはいかないので、そろそろ帰ることにする。
よいしょと重い腰を上げて、腥臥さんに別れを告げる。
「素敵な時間をありがとう、腥臥さん。もう行くね」
「うむ」
立ち上がると、血行がよくなったのか頭がくらりと回る。酒が回っているようだ。
でも、このくらいなら問題ない。数秒もすれば立ち眩みのような感じはおさまり、身も心もぽかぽかしてちょうどいい具合だ。
(さあ、湯屋に帰ろう)
◇
月明りと吊り灯篭に照らされたお城の赤い壁はすごく幻想的だ。わたしにもっと語彙力があったのなら、この美しさをもっと的確に表現できるのに。
酔うと少し感傷的になるのはなぜだろう。胸の奥に正体不明の切なさを抱えながら、ぶらぶらと湯屋を目指して歩を進める。
道中にある庭園にさしかかったところで、わたしは何か妙な気配に気が付いた。思わず足を止める。
(…………? 誰かいるのかな?)
庭園には石灯篭が配置されているものの、あまり明るくはない。
月明りでぼんやりと浮かび上がる整えられた木々を見渡すも、人影はない。そして、お城の外れのこの庭園に、こんな深夜に人がいるわけがないと気づく。
(気のせいか。思っている以上に酔っているのかも)
前を向き直り、じゃり、と玉砂利をふみしめる。
――――と、何かで口元を覆われた。一瞬の出来事だ。力強く押さえつけられて、叫び声を出すどころか呼吸ができない。
(――――!?!?)
詰まる喉に締められる首。
背後から誰かに襲われている――――!!
必死でもがくけれど、相手は体格がよく、力も強い。わたしの抵抗はあってないようなもので、力で抑え込まれる。
くく、と耳元で笑う息遣いが聞こえた。
そして相手は勢いよくわたしの身体を横に引き倒す。
その方向にあるのは地面ではなく――――池だった。




