夜半の桃園
黎において下瞼を指で下げて露出する行為――それが意味するのは「あばずれ女め!」。
瞼の中や口内を見せつける――つまり相手に粘膜を露出する行為全般にそういう意味合いがあるらしい。
(ああ……。なんかちょっと、違う意味だったんだな……)
日本との意味の違いにわたしは頭を抱えた。昆徫にちょっぴり酒の仕返しをしたかっただけなのに。
「頭を抱えたいのは僕ですよ! どうするんですかこれから。冬妃様に喧嘩を売ったも同然ですよ!?」
冬妃の首領宦官・昆徫に向かってそうしたということは、主人である冬妃への侮辱なのだと七淫子は言う。
「海里さん、殺されるかもしれませんね」
しごく真面目な顔で七淫子は呟いた。
「悪い冗談はやめてよ! わたしはまだ死にたくない!」
「冗談なんかじゃないですよ。今この瞬間から身の回りに気を付けた方がいいです。知っているでしょう、冬妃様が後宮の管理人になってから何人もの妃嬪が不審な死を遂げています」
実際、その場で昆徫がなにもしてこなかったのが怖いと七淫子は身体を震わせる。
「おそらく冬妃様に報告を上げるつもりなのでしょう。ああ、終わった…………」
「う~ん。誤解だから、謝ってきたほうがいいのかなあ」
「謝罪どころかお会いですることすらできないと思いますよ。僕らは湯屋の宦官ですから――」
そこまで言って、七淫子は入って来た客に対応する。
わたしははあと深くため息をつき、番台を後にする。
(やっちゃったなあ。面倒ごとに巻き込まれなきゃいいけど)
今夜はもう働く気にならない。そのままふらりと湯屋を出て、少し散歩に出ることにした。
夜十時過ぎ。冬妃ももう寝る時間だろう。それか皇帝のお相手をするだろうから、まあ今すぐ命を狙われることは無いだろう。
(侍医院まで行ってみるか、それとも桃園でしっぽりするか……)
とはいえ、もう桃の花は散ってしまっている。その代わりにみずみずしい若葉が芽吹き、涼やかな森林に姿を変えている。再来月あたりには実がなるかもしれない。
(……酒を持って桃園で飲むか。ついでに蓬を採って帰って、入浴剤にしよう)
わざとではないにしろ、結果的に侮辱してしまったという事実はあるので、謝罪の姿勢は必要だと思った。お詫びの入浴剤を持って明日華慶宮に行ってみよう。
そう決めたわたしは、湯屋に戻って酒壺を一つ持つ。七淫子の何か言いたげな視線に気づかぬふりをして、桃園へ向かった。
◇
穏やかな夜だ。城内の僻地にある桃園は静かで空気が澄んでいる。
柔らかい草が生えたところに腰を下ろし、舌なめずりをしながら酒壺の栓を抜く。
月を相手に晩酌をしていると、思いがけない客がやってきた。
「妾も混ぜてくれないか」
「…………ん? あっ。腥臥さん!」
月の光に浮かび上がる腥臥さんは今日もとても美しい。なんだろう、ほんわかと光をまとっているかのように身体が輝いて見えるのだ。高貴な人物ともなるとオーラが出るのだなあと感心してしまう。
腥臥さんは上質そうな衣類に気を留めることなく、ゆったりとわたしの隣に腰を下ろした。
――周囲を確認するが、お付きの女官は見当たらない。
「一人ですか? こんな時間に出歩くのは危ないですよ」
そう言うと、腥臥さんはくすくすと品よく笑った。
「おかしなことを言う。それはお主も同じであろう」
「わたしは宦官だからいいんですよ。妃嬪様とは立場が違います」
「そうか。しかし、問題ない。妾がひとりでふらつくことには皆慣れておる」
「そうなんですか」
腥臥さんの家はゆるいみたいだ。大丈夫って言うんなら、そうなんだろう。
酒壺を示し、飲みますかと聞いてみる。この酒は庶民的な味で美味しいけれど、妃嬪の口には合わないかもしれない。というか、そもそも妃嬪様って自分でもお酒を飲むのだろうか。皇帝に付き合って飲むくらいかもしれない。
だから念のため程度の声掛けだったのだけれど。返ってきた返事は意外なものだった。
「……もらおう。お主も酒が好きなのだな」
「“も”? 腥臥さんもお酒が好きなの?」
そう問うも、腥臥さんは綺麗な形の唇を少し上げただけだった。
それはきっと、是ということなのだろう。盃に酒を注ぎ、渡してあげる。この世界に来て誰かと酒を飲むのは初めてだから、嬉しい気持ちになってくる。
「庶民的な味だから、口に合うかわからないけど」
「――――うむ。美味いな」
一気に盃を空にした腥臥さん。これはなかなかいける口だ。
いちばん大きい壺を持って来てよかったと思いながら、二杯目を注ぐ。
特に何を話すわけでもなく、ここちよい時間が流れてゆく。聞こえるのは穏やかな風が葉をなぜる音と、時折あがる後宮あるいは朝廷の喧騒。僻地の桃園はまるで別世界のようで、酒と美しい夜空で完璧に完結していた。




