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首領宦官・昆徫

 翌日。

 いつもの時間に起床したわたしは、「冬妃の宮殿を見に行くから」と言って湯屋の準備を七淫子に任せた。


「いけません! かかわらないほうがいいですよ!」


 ――全力で七淫子からは止められたが、手に入れ損ねた酒の恨みは重い。家を見るだけだから危ないことはないと言い聞かせ、湯屋を出発した。


 暖かくなってだいぶ日が延びた。十八時でもまだ足元は明るく、道には使用人たちが忙しそうに行き交っている。


(そろそろ夕飯どきだもんなあ)


 後宮の門をくぐれば、美味しそうな匂いが漂っている。どこかでお肉を焼いているようだ。

 妃嬪たちも湯屋と同じく御膳房で食事を作ってもらうけど、上級妃になると自分の宮殿に厨房を構えるのだとか。


 荘厳な宮殿たちを眺めながら歩く。地味な雰囲気の侍医院や湯屋とは違って、なにもかもが華やかだ。色彩豊かな宮殿のみならず、道の植え込みには艶やかな花が咲き、どこからともなく甘い香の香りが漂ってくる。まさに女の園だ。

 七淫子いわく冬妃の住む華慶宮は後宮の中でも一等地にあるらしく、到着するまで結局三十分もかかった。


「ここが華慶宮……!」


 どうやら五分くらい続いていた壁は華慶宮だったようだ。恐ろしく広い。

 宮殿入口の門は首が痛くなるほど高く、そして豪華絢爛だ。ちらっと中をのぞいてみると、整えられた庭が続いており、五重塔みたいなものまで建っている。本殿の建物はぼんやりとしか見えないが遠目にもたいそう立派だ。


「ほえ~。豪邸じゃないの!」


 さすがと言うべきか。おそらくここの主人は、欲しいものは全て当然のように手に入れられるのだろうと思った。

 とはいえ、門の外から見るだけでは得られる情報に限りがある。ちょいとその辺でもぶらつくか――なんて思ってくるりと振り返ると、鼻の先に顔面があった。


「貴様は誰だ?」

「うわあっ! ちょっと! 近いよ!」


 もうすぐ唇がくっつくところだったよ!!

 慌てて身を引くと、同じくらいの身長の宦官である。なぜ宦官と分かるかというと、わたしも含め、宦官はそれを示す蝙蝠柄の補子ワッペンが仕事服に付いているからである。

 そして彼にもう一つ特徴的なのは、黒い眼帯だった。


「……あんた、左目どうしたの?」


 丸々と太った坊主頭の宦官。そこに黒い眼帯をしているものだから、思わず日本で有名な海賊の玩具を思い起こしてしまった。

 なにせ顔つきも悪いのである。山で遭遇した人さらいたちも同じような面構えをしていたなあとふと思い出す。内面の悪さは顔ににじみ出るって本当なのかもしれない。


「貴様には関係ない。それより質問に答えろ。殺されたいのか?」


 宦官は冷えた声で言い、腰にたずさえた棍に手をかける。

 ぎょろりとした右目が怖い。脅しではなく本当にやりそうな気配なので、慌てて自己紹介をする。


「わっ、わたしは湯屋の海里だよ。少し散歩をしていただけ!」

「湯屋の海里だぁ? 双子のところか……」


 殺気は和らいだものの、右手はまだ棍にかかったままだ。


「散歩だなんて嘘をつくな。門の中を覗き込んでいただろう」

「うっ」


 見られていたか。

 そろりと目を逸らすと、男は目線の先にずいと顔を移動してきた。


(こいつ、しつこいぞ。関わりたくない)


 ちょっと中を覗いたくらい、別にたいしたことじゃないだろう。しっかり身元も打ち明けたわけだし――。これ以上伝える義務はないと思った。


「それよりあんたは誰なの? わたしに構ってないで仕事に戻ったら?」


 そう睨みつけると、宦官は乾いた笑みを浮かべた。


「貴様、俺を知らないのか。ならばよく覚えておけ。俺はな、冬妃様の首領宦官・昆徫だ。不審者から冬妃様をお守りするのが仕事なんだよ」

「あんたが昆徫なの!」


 欬欬から飴を取り上げた悪いやつだ。そして、こいつのせいでわたしは腥臥さんの美酒を手に入れ損ねた。

 そう思うと、昆徫の思い通りになってたまるかという気持ちが強くなる。


「ひときわ豪華な宮殿があるから気になって覗いただけ。本当にそれだけだから。わたし、仕事があるから帰るね」


 言い捨てて、踵を返す。早歩きで十歩くらい進んだところで振り返り、思いっきりあっかんべーをしてやった。

 昆徫は唖然としていて追ってこなかった。


 ◇


 湯屋に戻り、七淫子に一連の出来事を報告する。

 華慶宮はすこぶる豪華だったこと。昆徫は黒い眼帯をしていて異国の玩具のキャラクターにそっくりだということ。怪しまれたが切り抜けたこと。酒を奪われて悔しかったが、あっかんべーをしてやったので少し気が晴れたこと。


「様子はわかったからもう行かないよ。あの豪邸と昆徫の横柄ぶりを見たら、なんとなく冬妃の生活は想像できたしね」

「それより海里さん」

「ん?」


 七淫子の顔色はひどく悪い。唇はわななき、脂汗で髪が張り付いている。

 五分足らずの報告で、調子を崩すことがあっただろうか。不審に思って尋ねる。


「どうしたの。貧血?」


 ごくり、と七淫子が唾液を飲み下す。

 掠れた声で、彼はこう言った。


「まずいです海里さん。……田舎では違うのかもしれませんが、下瞼を指で下げて露出するのは相手に対する侮辱行為です」

「ああ……うん。それは、知っているけど」


 あっかんべーは、元々そういう意味だろう。だからこそやったんだけれど。そんなに気にすることかしら……。


(七淫子は真面目だし子どもだから、深く考えてしまっているに違いない)


 ――しかし、わたしの認識はすごく甘かった。


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