欬欬
張り紙を見た客から続々と問い合わせが入る。
邪払とはあの邪払なのか。本当に効くのか。味は不味くないのか。酒はどんなものでもよいのか、等々。
「あの果物の邪払です。劇的な効果はないけど少し楽になります。水あめで成形しているので甘くて美味しいです。酒はなんでもよいです」
ロボットのようにそう繰り返しているうちに手元の飴はどんどんはけていき、その代わりに酒壺がどんどん増えてゆく。
わたしは自分の商才が恐ろしくなり、そして歓喜した。
「やった! 見て七淫子! うわあ、ここは天国だ!」
三日経たずに飴はなくなり、番台周辺のスペースは酒壺であふれかえった。妃嬪が持ってきたものはいかにも上質な陶器の壺だし、通勤組の朝廷の役人が持ってきたものは、街中で買ったと思われる庶民的な赤壺だ。それこそ壺屋が開けるくらい集まった。
「こんなに需要があったとは……。驚きました」
しげしげと酒壺を眺める七淫子。
「海里さんって、案外商売上手なんですね。今後も飴でお酒を集めるおつもりですか?」
「いいや。飴はもうおしまいだよ」
「えっ! こんなにお酒が集まるのに!?」
驚く七淫子に理由を説明する。
「だって、邪払飴って簡単に作れるでしょ。効果を感じて継続したい人は自作したほうが安くつくもん。ここで酒と引きかえにするなんて、最初の一回きりだよ」
そりゃあ、わたしだって邪払飴で永久に酒を手に入れ続けたいけれど。湯屋に来る人は少なくとも湯銭を払う余裕がある勤め人だ。街で邪払を買い、果汁を水あめで固めることなど自分の財布で間に合うのだ。
「なるほど。確かにそうですね」
とはいえ、これだけ酒壺が集まれば一週間は楽しめる。
その間に次の工面方法を考えなければいけない。
(うーん。何がいいかなぁ)
考えながら、わたしはさっそく酒壺を一つ手に取り栓を抜く。
「営業中ですよ」
咎めるように七淫子が言う。
「大丈夫! わたし酔わないから、仕事に支障は出ないよ。それにあと十五分でしょう? 誰もいないし、もう誰も来ないよ」
「そういう問題では」
「七淫子は細かいなあ。お母さんみたい」
「なっ! 僕はただ――!」
小競り合いをしていると、男湯側の入り口が開いた。
入ってきたのは一人の宦官であった。三十代前半に見えるが髪は白い。ひょろりとして背が高く、狐のように目が細い宦官だ。
「七淫子。飴はまだあるか?」
「欬欬様ではないですか。すみませんが、もう売り切れてしまいました。昨日の分では足りなかったですか?」
昨日も来ていたのか。忙しく飴をさばいていたので全然覚えていない。
飴はもうないと言われた欬欬は、困ったなと眉を下げた。
「実は、昨日こちらで求めた飴を昆徫に奪われてしまったのだ。手ぶらでは腥臥様に申し訳が立たない」
「それはそれは……」
同情する様子の七淫子。
(腥臥様ってのは、前に桃園で見かけた美しい貴人のことかな。昆徫とやらは一体何者なんだろう?)
知っている名前が出てきたので、話に入らせてもらうことにする。
「ねえねえ。あんた、腥臥さんとどういう関係なの? あと昆徫って誰?」
「これは海里殿。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。わたしは白腥臥様に仕えております欬欬でございます」
しなやかに腰を折る欬欬。湯屋の宦官なんて宮殿付きのそれより下位なのに、礼儀正しい宦官だ。
腥臥さんも髪が白かったし、郷里から連れてきた従者なんだろうか。
「昆徫というのはですね、冬妃のところの首領宦官です。冬妃の権威を笠に着てやりたい放題。自分の怠慢で飴を手に入れられなかったので、わたしから巻き上げたのですよ」
憎々し気に吐き出す欬欬。断れなかったのかと聞いてみれば、冬妃のほうが階級が高い関係上、腥臥様に迷惑がかかるとのことだった。
たかが飴一つで略奪騒動が起きていたとは。在庫が残っていないことを申し訳なく思う。
「悪いね欬欬。本当に一つも残っていないんだよ。そのかわり、邪払飴の作り方を教えるね。あと昨日もらったお酒も返すよ…………惜しいけど」
「海里殿。お気遣いに感謝します」
まったく。冬妃のせいで貴重なお酒を一つ失った。悪評はちらほら耳にするけれど、ついにわたしも被害を受けてしまった。
そしてふと、かつての友人のことを思い出す。
(杏喜はあの世でどうしているだろうか)
彼女の死は事故死として処理され、永明宮に勤めていた者は散り散りになっている。
きっとこのまま、運の悪かった妃嬪の一人として事件は風化してゆくのだろう。
(……明日、冬妃の宮殿を見に行ってみようか)
機会があれば、前を通ってみるといい。茗茗はそう言っていた。
冬妃とはいったいどんな人物なのか――。わたしはほんの少しだけ、興味が湧いた。




