真面目な男
仕事終わりの呂岳が湯屋にやって来た。
番台にいるわたしを見るなり苦い顔をする。またなにかお願いごとをされると気が付いている様子だ。
「で、今日はどうしたんだ?」
「あのさ。この時期に流行るくしゃみや鼻水に効く薬、知りたくない?」
「! そんなものがあるのか! ちょうど今、そういう患者が増えているんだ」
ぱあっと表情を明るくする呂岳。
(この男は真面目だから、学問と引きかえにすればなにかと融通をきかせてくれる)
上手くいきそうだ。
呂岳を連れてきた七淫子は彼を気の毒そうにチラッと見て、仕事に戻っていった。
「そのかわりに、邪払の飴を作ってほしいんだよね。邪払はわたしが用意するから、果汁を絞って膠飴と混ぜて成形して」
「…………手間のかかるところ、全部俺じゃないか。膠飴は調達してやるから自分でやれよ」
「嫌だよ面倒くさい」
面倒だから呂岳に頼んでいるのだ。むしろ、気を使って邪払の収穫は自分でやるのだから、褒めてほしい。
「邪払の飴なんか作ってどうするんだよ。腹の足しにはならないだろう」
「邪払はこの季節の症状にいいんだよ。そのままじゃ酸味と苦みが強すぎるから、飴にして湯屋に来た人に配ろうと思って」
そう言うと、呂岳は眉をあげて意外だという表情になる。
「珍しいな。海里が自ら考えて動くなんて」
「ただであげるわけじゃないよ。酒と交換だ!」
ふふんと胸を張って宣言する。
我ながら素晴らしいアイデアだと思う。わたしは酒が手に入り、相手は花粉症が楽になる。これはお互いに得をするシステムなのだ!
だというのに、呂岳はがっくりと肩を落とした。
「なんだよ、そういうことか……。お前に奉仕の精神を見た俺が間違っていた……」
「もしわたしが何不自由なくお酒を飲める環境だったら、見返りなしに配っていいけどね。残念ながら、世の中は厳しいのだよ呂岳くん」
現状、わたしは『持たざる者』だ。湯屋の宦官というのは城内カーストでいうと最下層であり、ことあるごとに馬鹿にされ、虐げられる存在だ。そのなかで自分の生活を豊かにすることが、日々を健やかに生きていくために大切だと思う。無償で知識や富を分配することは『持てる者』になったときにすればいい。いま聖人君子ぶって背伸びしたならば、あっという間に困窮してしまう。
そういうわけで、わたしは懐から二枚の紙を取り出す。
「これがお駄賃だよ。葛根湯加川芎辛夷と小青龍湯ね」
「!」
呂岳曰く、黎の医療は二、三種類の生薬を煮出して飲むのが一般的。あるいは、これは医療と言っていいのかわからないけど、道士という修行者による呪いもあるらしい。――いずれにせよ、わたしが漢方薬局で調剤していた処方はこの世界に存在しないということだ。
二、三種類の煎じでもある程度効くだろうが、医療用として効果が認められた日本の漢方処方には及ばないだろう。
呂岳は火傷の時に飲んだ温清飲の効き目を知っている。だからこんなにも、わたしの知る処方に食いつくのだ。
「どうする? やってくれる?」
呂岳の鼻の前で、調合法が書かれた二枚の紙を揺らす。ゆっくり左右に動かせば、眼鏡の奥で彼の目がしっかりと紙の動きを追っている。
「…………やる。やらせていただきます」
「よろしい」
取引成立。
呂岳は処方が書かれた紙を大事そうに懐に入れ、湯に入ることなく帰っていった。
◇
――洗装房の邪払をごっそり収穫し、呂岳に渡してから十日後。
ついに飴が納品された。
「ありがとう呂岳。あんた器用だね、綺麗な四角形だ。それに包みまで!」
飴はキャラメルほどの小さな四角形。黄色みがかった透明な色合いだ。
麻袋には百個はあろうかという飴がぎっしり詰まっていて、くっつかないように一粒一粒が竹の葉で包まれている。かゆいところに手が届く心遣いだ。
「やるからにはちゃんとしたいからな」
胸を張る呂岳。こういうところが、彼のいいところだと思う。
「処方のほうは大丈夫そう?」
「ああ。辛夷ってのが無いんだけど、海里が書いておいてくれた木を探して加工するよ」
じゃあな、と言って呂岳は侍医院に戻っていった。
さあ、さっそく今日から配布しよう。
(どんな美酒と交換できるだろう)
入口に『邪払飴はじめました。鼻水くしゃみ目のかゆみ万事有効。酒一升と交換し〼』と書いた紙を貼る。
営業開始が楽しみだなんて初めてだ。わたしはわくわくしながらその時を待った。




