邪払
杏喜が死んでからは、なんとなく鬱々と日々を過ごしていた。侍医院からもらってきた生薬の研究や、洗装房に生えている草の研究だけが楽しみだった。神農本草経のページ数は順調に増えていった。
そしていつのまにか暖かい日が増え、春が来たのだなと気が付いた。
「くしゅんっ!! ふわぁ~」
軒先を掃いている七淫子がくしゃみをした。
「どしたん? 風邪?」
営業開始前の夕刻。
湯屋の入り口にある石段に座り、洗装房から採ってきた邪払をほおばりながら尋ねる。
七淫子は、箒を片手にずびっと大きく鼻をすすり上げた。
「いえ。鼻がむずむずしただけです。毎年春と秋は鼻水が止まらなくて……」
「…………ふぅん。ねえ、これ一つあげる」
籠のなかの邪払を一つ放る。
うまくキャッチした七淫子は、さっそく「ありがとうございます。でも邪払かあ。これ、美味しくないですよね……」などど言いながらも皮をむき、一粒口に入れる。
「にがっ! すっぱ!」
「ふふっ。でも、少し楽にならない?」
そう問いかければ、七淫子ははっとする。
「…………! 確かに鼻の通りがよくなりました!」
「でしょ。花粉症には柑橘がいいんだよ」
驚く七淫子を横目に、自分の口にも一つポイと放り込む。強烈な苦みと酸味が刺激的で美味しい。邪払は見た目は柚子に似た柑橘で、日本だと和歌山県でよく採れる果物だ。
「花粉症、ってなんですか?」
そっか。この世界にはない病気なのか。
説明するのが面倒なので、ごく簡単に教えてあげる。
「特定の樹木の花粉……花に黄色い粉があるでしょ? それを吸い込むことで、鼻水やくしゃみ、かゆみなんかが出ることを花粉症って言うんだよ」
へえぇ、と七淫子は目をしばたたかせた。
ちなみにわたしは花粉症ではない。
漢方薬局に勤めていた時は、花粉症をどうにかしてくれと来店するお客さんが結構いた。体質や症状に合わせて薬を調剤していたっけ。
(お城の中にはちょこちょこと自然があるし、壁の外には普通に山がある。風に乗って花粉がやってきてもおかしくないか)
そこまで考えて、わたしは籠の邪払に目を落とす。皮の向こうからでも、柑橘特有の爽やかな香りが漂ってくる。
洗装房の邪払の木は豊富に実を付けていて、あと二十個以上はあった気がする。
「……ねえ七淫子。あんたみたいな花粉症の人って、他にもいるの?」
「そうですねえ。言われてみれば、毎年この季節には僕と同じような症状の人は多かったですね。特に妃嬪様なんかは、鼻水やくしゃみで化粧が崩れるので難儀だと言っておりました」
「そっかあ。……ふふっ。いいこと思いついた。ちょっと呂岳を呼んできてくれる?」
「わかりました」
ぱたぱたと駆けてゆく足音。
我ながらいいアイデアを思い付いたとほくそ笑む。ごろりと石段に横になり、また一つ邪払を一粒口に放るのだった。
新作の短編を投稿しました。
『推しが婚約破棄されたので、悪役令嬢(透明人間)になって復讐いたします!』
よかったら作者ページからチェックいただけますと幸いでございます。




