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華慶宮の主

 その晩。湯屋は七淫子に託し、約束の時間に永明宮を訪れる。

 主を失った宮殿は、侘しさを感じざるを得なかった。見張りの宦官はもはやおらず、中に入ると茗茗が一人棺に付き添っていた。


「小主が自ら命を絶つなんてあり得ません。これは事故ではなく、誰かの仕業です」


 椅子に座ると、茗茗はきっぱりとそう言った。


「その日の状況を教えてくれる?」


 白い布が張られた薄暗い広間。火鉢の前で二人暖を取りながら、昼からずっと気になっていたことを尋ねる。


「昨日、小主は冬妃からお招きを受けていました。未時(十四時)のお約束でしたので、小半刻前にはここを出発したのです。ところが華慶宮に着いたところで、小主は急に嘔吐し、体調を崩されました。我々と華慶宮の者が入り乱れ、太医の手配ですとか、小主を寝室に移動しようと混乱しているうちに、小主のお姿は見えなくなってしまいました……」


 茗茗は、杏喜の姿が見えなくなっても、華慶宮の者が手当てしているのだろうと思い込んだらしい。逆に華慶宮の者の言い分としては、茗茗たち永明宮の者が側について対応しているのだろうと思っていた。

 私がしっかりお側についていれば、と茗茗は自分を責めていた。


「華慶宮って、そんなに人がいるの?」


 いくら妃嬪の家といっても、この永明宮は女官と宦官含めても五、六人しかいないじゃない。行方不明者が出るほど人が入り乱れる状況ってどんなものなんだろうと思った。


「機会があったら、華慶宮の前を通ってみてください。常時百名以上の者が働いており、騒々しいったらありゃしませんので」

「百人!?」


 華慶宮はイベント会場かなにかなのか? 一人のお姫様に百人がかりって……とんでもない規模である。

 わたしの驚きが伝わったのか、「もう小主はおりませんので、諸々お伝えしましょう」と前置きして、茗茗はため息をついた。


「一年前に皇后様が亡くなってから、古参で次席にあたる冬妃は勢いを増しました。自分が後宮の管理人だからと聞こえのいいことを言っておりますが、その実やっていることはただの恐慌政治です」

「えーと、……つまり?」

「気に食わない者は害し、自分にへりくだる者を優遇するということです。手段を選ばない、蛇のような女です」


 チッ、と茗茗は舌打ちをする。守るべき杏喜がいなくなった今、ストッパーが外れたようである。


「ここ一年、後宮では不審死が相次いでいるそうです。私が小主と共にここに来たのは三か月前ですが、二名の貴人が亡くなりました。一人は皇帝のおぼえがめでたい者、もう一人は冬妃のやり方に反抗した者でした」

「そんな好き放題して、冬妃は罰されないの?」


 わたしは常敏に逆らっただけで百回棒で打たれた。人殺しなんかしたら、ただでは済まない気がするんだけど。

 茗茗は憎々しげに眉をひそめた。


「証拠がないのです。死因は分かっても、誰がやったかということが巧妙に隠されているのです。あるいは、関わったと思われる者はすでに始末された後という場合もありました。刑部尚尉も頭を悩ませているそうです」

「……手ごわいねえ」


 聞けば聞くほど恐ろしい女だ。絶対にかかわりたくない。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。

 けれど――杏喜の無念を思うと、このまま真実が明らかにならないのはあんまりな気がした。


「茗茗は、杏喜は冬妃にやられたと思っているんだね?」

「はい。冬妃は陛下のおぼえめでたい小主のことを疎ましく思っておりましたから。海里も、先日の香の事件を覚えているでしょう!」


 語気を強め、こぶしで机をたたく茗茗。茶器から湯がこぼれる。

 机にできた水たまりに目を落とし、小さくため息をつく。


「……わたしはただの湯屋だから、できることはないかもしれないけど。でも、杏喜のことは絶対忘れないし、この先犯人に関する手がかりを掴んだら、必ず罪を償わせるって約束するよ」

「海里。ありがとうございます」


 茗茗の目から、幾筋もの涙が流れ落ちる。そしてそれは、やがて嗚咽に変わった。

 悔しいだろう。悲しいだろう。一緒に郷里から出てきて、苦楽を共にしてきた主人が無念の死を遂げたのだから。


(……杏喜の舞、見たかったな)


 それももう、叶わぬ願いだ。

 両手を顔で覆う茗茗をそっと抱きしめながら、わたしは自分の無力感を感じていた。

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