【閑話】新人医官・呂岳の苦難
生まれは封州の大蓬。父は司隷校佐(地方の警察長官)をしていて、兄たちも当然のように官吏の道へ進んだ。幸か不幸か七人兄弟末息子の俺はほとんど気にされておらず、医官になりたいと伝えたところ、「いいんじゃない」と拍子抜けするほど簡単に送り出してくれた。
大蓬にいて感じていたのは、政治の力だけでは民は幸せになれないということだった。たとえ税が軽くなっても、悪に罰を与えても、病はなくならない。政治は優秀な兄たちがその道に進んだから、俺は医術を極めて民の暮らしをよくしようと思ったのだ。
十六年間暮らした封州を発ち、俺は大都・炎麒城へとやってきた。黎の中枢であり、実質のところ大陸の中枢でもある。仙女の直系子孫が住む場所でこれから俺は働くのだ――。天下にその名がとどろく御生門を前にして、身体の震えを止めることができなかった。
侍医院での生活は充実していた。院長の蘇先生をはじめとして、みな医術に真面目。とくに常敏様は若いのに優秀で人徳もあり、俺の目指す姿はここだと思った。
――そんなある夜。侍医院にとんでもない新入りがやって来た。
その宦官は、名を海里といった。
「えっ。あなた誰?」
深夜に訪ねてきて、間抜けな顔で開口一番そう言った。
使えなさそうなやつだな。それが第一印象だった。
――しかし、その印象は小半刻も経たずに覆された。海里は俺の火傷に対して、てきぱきと処置をし、見たこともない処方を調合したのだ。
しかも、その『温清飲』なる薬は生薬を八種類も使ったものだった。通常、一種類か二種類、多くて三種類の生薬を使うのが普通だ。薬術に通じた蘇先生でさえ五種類までしか使えないというのに、海里の脳内はいったいどうなっているのだろう?
医術は郷里で少しかじっただけ。――そうは言っても、結局俺の火傷は一週間も経たずに治った。温清飲のおかげで痕もほとんど残っていない。現在の俺よりはるかに腕があることに驚いた。
こいつは何者なんだ? 海里に興味が湧いた。
暇があれば様子を見に行った。海里はのろまで怪我はするし仕事も遅い。でも、いつでも一生懸命取り組んでいた。仕事が多くて忙しそうにしていたから、顔を合わせても一言二言話すだけ。それでも不思議と楽しかった。唯一の後輩だから、俺がこいつの世話をしなければ。そんな気持ちもあったかもしれない。
だから、俺は自分が許せなかった。
いくら常敏様の指示とはいっても、そんな海里を棒で打ったのだから。
常敏様の家は吏部尚尉(官吏の任免と進退を司る)。家族を引き合いに出されて動揺してしまったと言えばそれまでだ。冷静に考えれば、公正な父はそんな脅しよりも、友人を棒で打ったことを叱るだろうに――。
そして海里は湯屋に左遷された。
すぐさま詫びに行き、海里が大好きな酒を贈ることになった。実家の蔵にある古酒を都合してもらい、非番の日にさっそく湯屋へと向かった。
◇
営業終了直後の湯屋。表に牡丹は出ていないから、閉店済みだと確認する。
入ると無人で、女湯の方から物音がした。
「海里―っ。酒を持ってきたぞ」
――返事はない。掃除中だろうか?
もしまだ湯が残っているのなら、熱燗にして楽しめる。酒好きの海里だから早く飲みたいだろう。いったん外に出て、閉店済みであることを再度確認し、少し緊張しながら女湯へ入る。
「入るぞー」
一応声をかけて、がらっと戸を引く。
「…………んっ??」
女性が一人、頭を洗っていた。
「………………!!」
なんだよ!! まだ客がいるじゃないか!!
叫びそうになったが、慌てて口元を抑える。
あのポンコツめ。よく確認しないで閉店させたな!!
酒壺を抱えて湯屋の外まで急いで逃げた。
心臓が痛い。これ以上ないぐらい拍動している。死ぬかと思った! いろんな意味で!!
幸い女性はこちらに背中を向けていたけれど、もし目が合っていたら首が飛ぶだけじゃすまされない。のぞきの罪で一族連座なんて恥さらしもいいところだ。
「……くそ。出直そう。ったくあいつめ、真面目に仕事しろよな……」
海里の興味関心は本当に限定されているらしく、侍医院での勤勉ぶりが嘘のように、湯屋では怠けている。あいつの手抜かりに巻き込まれるなんてまっぴらごめんだ。営業時間内に出直そう。
はあ、とため息をついて侍医院への帰路につく。
(………………綺麗な背中だったなあ)
一瞬しか見ていないが、白い背中に細い腰、長い黒髪が目に焼き付いていた。
「――――いや俺っ! なにを考えてるんだ!!」
くそっ。海里のせいで気が散るぞ! 早く侍医院に行って勉強をするんだ俺は!!
自然と早くなる足で道を急いでいると、向こうから見知った顔が歩いてきた。
「七淫子じゃないか」
「呂岳様。おはようございます」
丁寧に礼をとる七淫子。
こいつは真面目なのになあ。上があいつだと苦労するだろうな……。少し七淫子に同情する。しかし、苦情はきちんと伝えてもらおう。
「なあ、海里に言っておいてくれ。客が全員帰ったかどうか確認してから閉めろってな。それぐらいできるだろう」
「あれっ。まだお客さんがいましたか?」
「一人いたぞ。女湯に」
おかしいなあ、と七淫子は首をひねる。
「今日締め作業をしたのは僕です。すみません。しっかり確認したつもりですが、見落としていたのかなあ……?」
「お前だったのか。気をつけろよ」
「はい。すみません」
七淫子と別れて、侍医院へ急ぐ。
――海里と関わるとろくなことがない。
でも、なんだか楽しい気持ちになるんだよな。
呂岳の賑やかな日々は始まったばかりだ。
一章(完)となります。物語は始まったばかり……。
二章では漢方や後宮の影に続き、恋愛要素も入る予定です。現在半分ほど書き進んでいますのでぜひお待ちいただけたらと思います^^
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