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始まり

 もう少しだけお酒をご馳走になり、七淫子へのお土産を重箱いっぱいに詰めてもらって永寿宮を後にした。


「ありがとう、杏喜に茗茗。また呼んでね。湯屋にもいつでも遊びに来てね」

「ありがとう海里! 今度行くときは入浴剤を持って行くね」

「……小主と関わる際は、本日のような格好でお願いします。番台の時のようなだらしない姿では小主の評判が――」

「じゃあね~! ごちそうさま~!」


 外に出ると、ひんやりとした冷気が温まった身体に気持ちいい。

 さんさんと輝いていた陽はすっかり落ち、城内には灯りがともされている。灯篭の中で揺れる橙色の炎は、朱色の壁を幻想的に照らし上げる。


(充実した一日だったなあ。お酒も飲めたし、お腹はいっぱいだし、友達もできたし)


 わたしは一人が気楽ではあるが、友達が欲しくないというタイプでもない。

 適度な距離感を保ち、気が向いたときには訪ね合い、他愛もない話で楽しく時を過ごす。そのような付き合いができれば理想的だ。


 空を見上げれば、星の一つ一つがわたしを見てと言わんばかりに輝きをアピールしている。電気がなく、高い建物もないこの世界の夜空はたいそう澄んでいて綺麗だ。

 お酒を飲むと、景色の一つ一つがいつもより美しく、そして懐かしく感じるのはなぜだろうか。


 いい気分のまま湯屋に帰り着くと、七淫子が番台で働いていた。


「あっ! 海里さん。よかった。おかえりなさい」


 わたしを見るなり、ホッとした表情である。

 なんだろう。ちゃんと帰ってきたことを安心しているような感じだけれど、こんな子どもを置いて脱走するほど人でなしじゃあないぞ。


「ただいま~。店番ありがとう。これ、お土産ね」


 重量感のある重箱を渡すと、七淫子は飛び上がって喜んだ。


「ありがとうございますっ! うわあ、こんなにいっぱいの小吃なんて見たことない!」


 目を輝かせるとはまさにこのことだ。すごく喜んでもらえてこちらまで嬉しい。

 今日一日仕事を代わってもらったお礼を言い、まずは控室で着替えをする。このまま寝てしまいたいが、七淫子に悪いのでもうひと頑張りするか。


 ――と思ったものの。


「僕は大丈夫です。酒臭いのでもう寝てください。あと、普段からも今日みたいな清潔感あふれる身なりをお願いします」


 と怒られてしまった。なんだろう、七淫子がだんだん母親みたいなことを言うようになってきている。

 善処します、と答えたものの。まあ適当でいいよね、と思う。番台なんて誰がどんな格好でやろうが関係ない。ここはお城の公営浴場なので、売り上げにこだわる必要もないのだから。


 そういうわけで、わたしは今日一日の幸せな思い出と共に布団に入る。


(次はいつ杏喜に会えるかなあ。入浴剤を使ってくれたら、効果がどうだったかも聞いてみたい)


 不運で不憫な永明宮の主。

 これからの彼女の未来が少しでも明るくなってほしい。今度、一緒に桃園へ花見に誘ってみようか――。


 その日から、わたしにしてはかなり珍しく他人の幸せについて考えていた。



 ――しかし、杏喜との約束は何一つ実現する前に終わりを迎えた。

 永明宮に招かれてから三日後のことである。


 杏喜は後宮の井戸の底から、変わり果てた姿で発見された。


一章はここで終わりです。閑話を挟んで二章に続きます。

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