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約束

 顔面蒼白の茗茗が、床に頭を付け平伏する。


「申し訳ございません! ただちに廃棄してまいります!」


 彼女はただちに他の女官を集め、ばたばたと処理に向かった。

 目の前の杏喜はぶるぶると震えており、今にも泣きだしそうな表情だ。


(……えっ。もしかして、知らなかった?)


 気まずくなったわたしは、とりあえずぐいと盃を傾ける。そして、口元に手をあてて小声で尋ねた。


「ごめん。知らなかった? でも大丈夫だよ。次に買うときに気を付けたらいいから」

「……あれは、買ったものではないのです」

「貰いもの? じゃあ、その人も知らなかったんだね。かなり他の匂いに紛れていたから、わからなかったのかも」


 わたしは丹薬の研究をしていたり、薬剤師だったりするから気が付いたけれど。成分表示などないこの世界で一般人が気が付くのはとても難しいと思う。


「…………」


 黙りこくる杏喜。

 額からは汗が流れ、眉には力が入っている。何かを堪えているかのように苦しげな表情だ。


(動揺の仕方が普通じゃない)


 するとそこに茗茗が戻って来て、震える杏喜の身体をぎゅっと抱いた。それはまるで何かから守るような動きだった。

 背中をさすりながら優しく言い聞かせる。


「小主。香は全て破棄いたしましたのでご安心ください」

「……うん。ありがとう」


 しかし、依然二人の表情は固いままだ。


「ねえ、どういうこと?」


 理由を尋ねると、しばらくの沈黙の後、茗茗が重々しく口を開いた。


「この香は、(とう)妃から頂いたものなのです」

「冬妃? 他の妃嬪様ってこと?」


 七淫子が教えてくれた、妃嬪の階級を思い出す。

 後宮で一番偉いのが皇后、そして次が皇貴妃(こうきひ)、以下は貴妃(きひ)()(ひん)貴人(きじん)常在(じょうざい)答応(とうおう)という順番だ。これに当てはめれば杏喜は一番下の階級で、今出てきた冬さんとやらは高位の人物である。


「あなたは冬妃のことを知らないのですね」


 苦々しい声色に、冬妃に対して抱くネガティブな感情が伝わってくる。


「知らない。後宮で知っているのは杏喜だけだよ」


 まあ、後宮以外でも、名前を把握している人物は五本の指で間に合うくらいだ。わたしの交友関係は実にシンプルである。


「それは幸せなことですね。……あの蛇め、どんどんやり口が卑劣になってくる」

「悪い人なの?」


 ……蛇って。敵対心むき出しの茗茗である。後宮は良家のお嬢さんが集まっていると思うのだけど、性格の悪い人も混じっているのかしらん。


「うちが冬妃のことを悪く言っていたと言いふらされても困りますから、詳細は控えますが」


 茗茗は杏喜を抱く手に力を込め、深くため息をつく。


「簡単に言うと、主上の覚えがめでたい小主に嫌がらせをしているのです。今回の件も、その一環かと思われます」

「……なるほど。焼きもちってことか」

「そんな生易しいものではありませんけどね。ですから海里」


 そこまで言って、茗茗はわたしの目を真っすぐに見た。

 海里、と初めて名前を呼ばれたことで、自然と身が引き締まる。


「もし小主があなたと一緒にいるときに危険な目に遭ったら、全力で助けてください。約束していただけますか」


 射貫くような茗茗の瞳に、ひゅっと心臓がすくむ。

 そのまなざしは言葉以上に重みがあって、わたしの知らない様々な事件が過去にもあったことを感じさせた。


(わたしに杏喜が守れるだろうか)


 知恵もなく、腕力もなく、身分も低い。

 疑問が脳裏に浮かんだけれど。どんな結論が出ようと関係なく、答える返事は一つに決まっている。


「もちろん。できる限り杏喜を守るって約束する」


 そう答えれば、茗茗は大きく頷いた。

 腕の中の杏喜は、肩を震わせてしゃくりあげ始めた。ひくっ、ひくっ、という嗚咽と時折鼻をすする音が部屋に響き渡る。


「杏喜、泣かないで。怖い思いをしてきたの? これからはわたしもいるし、湯屋に来れば七淫子もいるからさ。いつでも遊びにおいでよ」


 そう声をかけて、背中をさする。豪奢な衣装に身を包んでいても、その背中は小さく、か細いものだった。彼女に対する痛ましさがふつふつと膨れ上がる。


(来たくもない後宮に来て、皇帝に気に入られるわ、先輩にはいじめられるわ、散々な思いをしてるんだな。可哀想に。…………あっ、そうだ)


 せっかく作ったお土産を渡していなかった!

 少しでも杏喜の気持ちが上がれば嬉しい。そんな思いで、懐から入浴剤を取り出す。


「これ、今日のお礼に持ってきたの。桃の葉と蓬で作った入浴剤だよ。美肌になって疲れも取れるから、よかったら使ってね。辰時に来てくれれば、貸し切りでお風呂に入れるからさ」


 永明宮に風呂は無いので、営業終了直後の湯屋で使ってもらいたい。

 小さな巾着を手渡すと、杏喜は真っ赤な目を丸くした。


「にゅ、入浴剤、ですか。初めて聞きました。……ひくっ。実家でも見かけませんでしたね、茗茗」

「そうですね。失礼、念のため中身を改めさせていただきます」


 ここでも茗茗チェックが入る。巾着を開き、中の葉っぱを掌に出してじろじろと検分する。

 ――見ただけで何の葉っぱか分かるんだろうか。


「茗茗は薬草に詳しいの?」

「詳しくはありません。ただ、毒草は見分けられるよう、教育を受けています」

「なるほどねえ」

「小主、問題ありません。毒草ではありません」


 茗茗は葉っぱを巾着に戻し、杏喜の小さな手にそっと置いた。

 杏喜は顔を喜びでほころばせた。


「ありがとう海里! ごめんなさい、気を悪くした?」

「全然いいよ、事情は把握したから。調べた方が安心でしょ」


 ――よかった。先ほどまでの重苦しい雰囲気が軽くなった。

 泣き止んでにこにこと巾着を眺める杏喜は年相応の可愛らしさで、見る者の心を癒す美しさだ。


(杏喜にとって、少しでも楽しくて明るい生活が訪れるといいな)


 そう願わずにはいられなかった。

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