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待ち望んだもの

「くれ! くれたら、今日一日は働いてやるよ」

「おっ。話が早いじゃん。じゃあ一袋あげるかわりに、わたしの身なりを整えるのと、七淫子の手伝いをしてくれる?」


 礼服があるらしいが、ちらっと見たところ飾りが多く、衣が何枚もあって複雑そうだった。百人中百人が正しく着られるほど簡素なつくりの普段着と違って、一人で正しく着られる自信がない。

 加えて、伸び放題の髪も清潔に整える自信がない。手櫛でポニーテールにする、それぐらいの能力しかわたしにはない。


 非常に面倒くさいけど、最低限の身なりをしていかないとまずいというのは理解している。自分で学習して解決する手間が惜しいので、詳しそうな六淫子がやってくれたらありがたい。


「礼服を着て、髪を整えなきゃいけないんだ。あんた、妃嬪様に油を売ってるなら身なりや髪型に詳しいんじゃないかと思って。よろしく頼むよ」

「……まあ、いいけど。どこかに行くのか?」

「杏喜の家にお呼ばれしてるんだ」

「夏答応か……ふぅん」


 ふぅん、の部分に何か意味があるように感じたけれど、興味が無いので追求しない。


「じゃあ、さっさと支度するぞ。いいか、必ず一袋よこせよな」

「わかったわかった」


 ――――そうして準備を六淫子に丸投げしたものの。

 結論としては、大正解だったと言える。「完成だ」と言われて鏡を確認すると、清潔で仕事のできそうな若者が映っていた。髪はきちんと梳かされてハーフアップにセットされ、どこから持ってきたのか知らないが、眉墨も使ったようだ。できるオーラは凛々しく引かれた眉から来ているように思われた。


「すごい! 別人みたい! さすが、持つべきものは六淫子だね!」

「ふふん、まあな。お前、ちゃんとすればそこそこの宦官に見えるぞ。いつもそうしていりゃあ、女官や妃嬪様の目に留まるかもしれない」


 つまり、引き抜いてもらえるという意味である。

 男性がいない後宮では、見た目麗しい宦官は人気が高いのだと、六淫子は教えてくれた。


「いや、興味ないや。だってそれ、つまりお飾りってことでしょう? 愛玩用宦官なんて何が楽しいやら」

「そうか? いい暮らしができるぞ」

「わたしは別にいいかなぁ。六淫子、ありがとね」


 今こうして身なりを整えているのは、あくまで杏喜に恥をかかせないため。もっと言えば、二回三回と呼んでもらって、定期的にお酒をご馳走になりたいからだ。妃嬪様に気に入られ、飼われるためではない。


 麻製の小巾着に手早く桃の葉と蓬の葉を詰め、そのうち一つを六淫子に与えた。

 彼は躍り上がって喜び、さっそくどこかへ走り出していった。


(さて。わたしも出発するかあ)


 気が付けば、約束の二時になってしまっている。

 慌てて杏喜の家、永明宮を目指して湯屋を出た。


 ◇


 このお城の敷地自体が高い壁で囲われているが、後宮は更にまた壁で囲まれたところにある。

 永明宮は比較的湯屋に近く、東側の門を入ってすぐのところにあった。殿舎の前に控える宦官に取次ぎを頼めば、すぐ中に案内された。


「ほえ~!! すごく広い。侍医院や湯屋とは大違いだ」


 門を入れば植え込みが美しい小庭があり、堂々たる殿舎へと続いている。朱や金銀といったきらびやかな色彩で仕上げられた殿舎は目にも鮮やかで、内部は当然それ以上に豪奢であった。

 家具は漆が塗られて艶ぴかであるし、クッションや敷物には緻密な刺繍が施されている。全く機能的ではない壺がそこかしこに置かれ、うっとりするような香が焚きしめられている。


 応接間のようなところを抜けて、奥の部屋へと通される。入ると、すでに飲食の用意がされており、杏喜が着席していた。相変わらず疲れた様子だが、元気は元気そうだ。

 挨拶をしながら正面の席に座る。


「ごめん、待ったよね。今日は呼んでくれてありがとう」

「あっあっ、こちらこそ来てくれてありがとう!」


 ガタッ!! と音を立てて立ち上がる杏喜。後ろに控える女官が「相手はただの宦官ですから、小主が立ち上がる必要はないのですよ」と注意すると、「あっ」と小さく呻き、再び着席した。


「可愛いね、杏喜」


 後宮に来てまだ数か月なんだっけか。不慣れな感じが可愛らしい。

 思わず微笑むと、なぜか杏喜は顔をぽっと赤らめた。


「せっ、先日はお助けいただきありがとうございました。そのお礼にと思って小吃(おやつ)を用意しました。あと、お酒が好きだと茗茗(めいめい)から聞いたので、たくさんご用意しました。好きなだけお飲みくださいっ」


 早口で一気に喋り上げ、ぱっと俯いてしまった。恥ずかしがりのようだ。

 見た目も小さくて可愛らしいし、くりくりした目はつぶらだし、怯える小動物みたいだ。


「じゃあ、遠慮なく」


 目の前にある盃を手に取ると、さっと女官が動く。わたしの近くに置いてある壺から、お玉のようなもので液体を注いでくれた。

 すん、と鼻を効かせると、芳醇なアルコールの香りがした。


(ああ、懐かしい)


 実家のこたつに入ったときのような安堵感。酒はわたしに安らぎを与え、幸福で包んでくれる存在だ。

 ぐいっと盃を傾ければ、喉から胃へ通ずる軌跡を感じる。数か月離れていた喪失感が、みるみるうちに温かいもので埋まってゆく。


「こちらは二十年物の黄酒でございます」


 茗茗が説明する。


「へええ。随分良いものを出してくれたんだね。すごく美味しい」


 なんだろう。紹興酒に近いんだけれど、日本で飲んでいたものより酸味が少なくまろやかだ。熟成年数が関係しているのか、原材料が違うのか。独特の深い香りは異国情緒を感じさせる。


(まあ、飲めれば何でもいいんだけれどね)


 わたしは考えることを止めた。

 お酒を飲むときは、あれこれ考えないほうが美味しい。わたしはお酒の蘊蓄(うんちく)が好きなのではなく、酒という存在そのものを愛している。だから、なにからできていて、なんという酒なのかは大した興味の対象ではないのだ。


 空になった盃に、茗茗がおかわりを注いでくれる。

 杏喜はというと、傍らに茶器が置かれていることから、酒は嗜まないようだ。


「あっあっ、甘いものは苦手だそうですね。お酒の肴になるようなものを用意しました。こちらもご遠慮なくどうぞ」

「えっ、そうなの? いや~悪いね」


 そう。気づいてはいたが、机の上に並んでいるのはおよそ「おやつ」と呼ばれる料理ではなく、酒飲みが好むような総菜類だ。

 香ばしい脂の香り、よく煮込まれた肉にかかる黄金の餡、蒸気を立てる焼売。大皿に豪快に盛られたそれは、明らかに杏喜が食べるようなものではなく、わたし用に作られたもの。――ごくり、と喉が鳴る。


「料理の説明をいたします。まずこちらが炒豆醤チャオドウジャン。豆を味噌で炒めたものです。こちらは溜鶏脯リウチソ、鶏肉の甘酢あんかけです。そしてこちらが還光腰子カンコウヨウシ、羊の胸肉焼きとなります。そしてその隣が――――」


 説明の終了が待ちきれなくて、ひょいと箸を伸ばす。

 茗茗にじろりと睨まれたが、美食の前では些細なことだ。どれもこれも素晴らしく酒と合う。箸が止まらない。


(ここの料理人は絶対に酒飲みだ。ぜひとも一杯酌み交わしたい)


 美味い酒に、美食の数々。

 ここは桃源郷なのだろうか? 生きていて本当に良かったし、永遠に死にたくない。

 必ず丹薬を完成させて、この世の春を永遠に感じ続けたい。酒で温まった頭と心で、わたしはそう思っていた。


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