入浴剤
営業終了後、朝八時。
狭い番台のスペースから解放されたわたしは外に飛び出し、気持ちのよい青空を見上げる。
朝の空気は新鮮で、無味無臭のはずなのに、とても美味しく感じた。左腕をぐっと上に突き上げる。力いっぱい伸びをすれば、それだけで疲れが少し取れたような感覚になった。
湯屋の後片付けは七淫子に任せて、わたしはお呼ばれの準備に専念する。
今日杏喜のところに持っていく手土産――それは『入浴剤』だ。
聞けば、この世界に入浴剤というものはないらしい。
そもそも侍医院にあった生薬棚の数は百程度。それに対して現代日本で常用されている生薬は二百ほどだ。侍医院にいたころ見聞きした診察内容をふまえても、日本ほど生薬の活用や応用が発展していない世界なんだと思う。
(杏喜、喜んでくれたらいいけど)
よく考えてみれば、人に贈り物をするのは初めてだ。もらった経験としては、高校、大学のときなぜか女の子からプレゼントをもらうことはあったけれど、だらしない自分への施しだろうから、贈答品にカウントしてよいのかわからない。
のんびり歩きながら先日発見した御薬苑裏手にある桃園へ向かう。
桃の葉は桃葉という生薬にもなっていて、肌荒れや乾燥に効果がある。皇帝の覚えがめでたい杏喜にはぴったりだろう。
桃園に着くと、先日より散ってはいるものの、惚れ惚れするような可憐な花たちが迎えてくれた。しばらく花と甘美な香りを楽しみ、葉を採集する。
「――あれっ。蓬も生えてるじゃん!」
地面には蓬がちらほら生えていることに気が付いたので、それも貰うことにする。実は蓬も艾葉という生薬で、冷え性、疲労回復などに効果がある。
ただ、杏喜にあげるのは採れたてほやほや、生の薬草入浴剤だ。乾燥させて生薬加工したものではないから、そこまでちゃんとした効果は出ないと思うけどね。まあ、雰囲気と香り重視で楽しんでくれたらいい。
丹薬の研究が一番楽しいけれど、こうして薬草と触れ合うだけでも活力がみなぎってくる。せっかく来たのだから、余分に作って誰かにあげようか。自分でも少し使いたいし。そう思って多めに材料を採り、湯屋に戻った。
◇
「おっ新入り。続いているみたいだな! これからも弟と頑張ってくれ」
湯屋に帰ると、珍しく六淫子がいた。
珍しく、と言ったが少し訂正しよう。顔を合わせるのが珍しいだけで、実はこの少年、毎日湯屋に来てはいるのである。わたしと七淫子の隙をついて湯に入り、身ぎれいにしているのだ。ちゃっかり者である。
じと、と彼を眺める。
控室に座り込み、妃嬪からもらったのだろうか、上質そうな焼菓子を頬張っている。
「――あんた、暇そうじゃん。ちょっと手伝ってよ」
「ええ? 嫌だよ。俺は忙しいんだ」
そう言うと思った。
だから、わたしはもったいぶった表情を作り、六淫子を挑発する。
「わたし、珍しい物を持ってるんだけどなあ。もしかしたら、妃嬪様も物珍しく思ってくれる物かもしれないんだけどなあ」
「嘘つけ。お前みたいな奴が持っているはずがない」
「本当だよ。というか、今から作るんだけどね。見る?」
とれたての葉っぱがたくさん詰まった麻袋を床に下ろすと、六淫子がそれをのぞき込む。
「ただの葉っぱだろう。ほらみろ、やっぱり嘘だ」
「これを袋に小分けして入浴剤にするんだよ」
「……入浴剤ってなんだ?」
ふふん。しょせんは子どもだ。
見慣れない葉っぱに、聞きなれない言葉。六淫子はじりじりとわたしと距離を縮め、隠しきれない好奇心がちらつく目を向けてきた。
「お湯に浮かべると、葉っぱから薬用成分が出てきて、健康にいいんだよ。今採集してきたのは桃の葉と蓬の葉で、美肌や疲労回復にいいものなの」
「へえ~。そんな物があるのか」
「だからね、妃嬪様たちが喜ぶと思わない? みんな綺麗になりたいんじゃないの?」
「……!」
はっと目を見開く六淫子。
彼は入浴剤の価値に気が付いたようだった。
(女性は新しいもの、珍しいもの好きが多いからなあ。その上綺麗になれるんなら、興味を持つ妃嬪も多いんじゃないか?)
つまり、それを持っている六淫子の価値も上がると言うわけである。妃嬪に油を売って生活している彼にとって、悪くない話だろう。




