突然の誘い
数日後。
いつものように番台であくびをしていると、にゅっと女の顔が視界に入って来た。
「わわっ! 誰!? ――痛っ!!」
「永明宮の者です」
びっくりして身を引いたら、後ろの壁に思いっきり頭をぶつけて鈍い音がした。これはたんこぶになるかもしれないぞ、と後頭部をさする。
それで、永明宮だって? 聞き覚えのない名称である。
「どこそれ?」
「…………夏杏喜様の宮殿です」
「ああ! 杏喜の家のことなの!」
「ですから、呼び捨てにしないでください」
宮殿なんてすごいなあ。字づらだけで豪華でぜいたくな暮らしが頭に浮かんでくるもの。皇帝の奥さんってすごい。
「それで、どうしたの」
女をよくよく見ると、先日杏喜が倒れた時に付き添いで来ていた女官である。狐のように細い目と、それと対照的に丸い眉。はっきりした物言いが印象に残っていた。
女官はただでさえ細い目を細めて、品定めするようにこちらをじろじろと眺める。
「……まったく。やっぱり礼儀も知らない間抜けな宦官なのに、どうして小主は気にかけるんでしょうね。お前、よく聞きなさい」
「聞いているよ」
「小主が、先日のお礼をしたいと申しております。永明宮で小吃はいかがですか」
「えっ」
予想もしてみなかった話でびっくりした。
――でも。わざわざ誘ってくれてありがたい話ではあるが、正直なところ、そこまでそそられない。
「おやつかぁ。あんまり甘いものは好きじゃないんだよね。お酒があるってなら、話は別だけど」
湯屋では三食しっかり食べているので、侍医院にいた時のような飢えはない。わたしはどちらかと言えばケーキより煎餅の方が好きなたちで、酒の肴になるようなしょっぱいものが大好きだ。
(わざわざ食べに行く暇があったら、侍医院からもらってきた生薬の研究をしたいしなあ)
湯屋の仕事にもなんとか慣れてきたところだ。そろそろ餞別でもらった生薬研究に手を付けたいと思っている。
――しかし、大きなため息の後、女官はこう言った。
「…………ご希望でしたら、お酒もありますが」
「えっ! そうなの!? じゃあ行きます!」
――一日くらい、生薬研究を延期しても構わないだろう。
生薬は確実にわたしのものだから逃げない。しかし、酒はこの機会を逃したらいつ飲めるか分からないからだ。呂岳はあれ以来ないし、結局わたしはまだ酒にありつけていないのだ。
「で、いつ? 今から?」
「あなた仕事中でしょう。……明日の未時に永明宮までお越しください。それでは」
一気に用件を述べると、女官はふんっと鼻を鳴らし、さっさと帰っていった。
「七淫子~っ!!」
喜びを隠しきれないわたしは、さっそく七淫子を呼ぶ。七淫子は優秀で、わたしが番台から大声を出せば必ず聞きつけてやって来てくれるのである。
「海里さん。どうしましたか?」
その期待を裏切ることなく、すぐに七淫子はやってきた。
火の番をしていたようだ。顔が煤で黒く汚れている。
「聞いて聞いて。わたし、明日杏喜のお家にお呼ばれされたの! お酒が飲めるんだって!」
「はあ。それはよかったですね」
そう言いつつも、羨ましそうな表情が出てしまっている七淫子。
安心してほしい。子ども宦官を差し置いて、自分だけいい思いをしに行くほど図々しくはない。
「未時に来てくれって。だから、申し訳ないんだけど、帰りがいつになるか分からないから湯屋をお願いね。おやつがあるみたいなんだけど、わたし甘いものはあんまり好きじゃないの。全部七淫子にお土産にもらって来るからね」
「そういうことなら、お任せください!」
一気に頬が緩む七淫子。子どもらしくてかわいい表情だ。
にこにこしながら彼は続ける。
「妃嬪に招かれるなんて、来たばかりなのに海里さんはすごいですね。何か手土産を持って行ったらどうですか? それと、身ぎれいにしていかねばいけませんね」
「手土産かあ……」
そうは言っても、ここは湯屋。高価なものなどないし、それこそ妃嬪なら質の良いものは自分で持っているだろう。でも七淫子の言う通り手土産があったほうが見栄えがいいようにも思える。
(あとは、身ぎれいかぁ)
残り湯で毎日入浴しているけれど、これでは足りないのかしらん。しかし、こちらもただの湯屋にできることには限界がある。お給金をはたいて髪飾りを買おうとも思わないし……。
「控室の物入れに礼服が入っています。それを着ていくといいと思います。あと、髪ですね。いつも適当に流していますけど、しっかり結わえたほうがいいですよ」
「ああ、よそ行きの服はあるんだ。わかった、杏喜に恥をかかせるわけにはいかないから、ちゃんとしていくよ」
(なんだ、それ用の服があるんじゃん!)
身ぎれいに、という点はクリアできそうだ。問題は手土産の方なのだけど――。
少し考えて、ふと一つアイデアが思い浮かぶ。
「ねえ七淫子。杏喜って、よく湯屋に来ていたの?」
「そうですね。夏答応は数か月前に入内したばかりなのですが、主上のおぼえがめでたいようで、以前から週に三回はいらしています」
「そっか。わかった、ありがとう。もう戻っていいよ」
「はい」
(そっか。結構お風呂に来ているんだね)
であれば喜んでくれるかもしれない。営業が終わったら、早速材料を集めに行こう。
早くこの退屈な時間が終わらないかなあ――――。
わたしは再びあくびをし、不愛想な番台に専念するのだった。




