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湯あたり

 調剤を始めて十分が経過した。

 医官は未だあたふたして落ち着かず、ほんの二日分だというのに薬が完成しない。

 手際の悪い医官に、ついに女官が口を開いた。


「太医。小主は本当に風邪なのでしょうか? 入浴する前まで発熱はなかったのですが」

「急いでいただけませんか。身体が冷えてしまいそうです」

「今やってますからぁ! せ、急かさないでくださいっ」


(おおっ、キレたぞ)


 女官に疑われ、急かされた医官が裏返った声で叫ぶ。手元が狂い、盛大に生薬を床にぶちまけた。


「ああもうっ。あなた方は黙っていてくださいっ!」


 医官は一から調剤をやり直し始める。女官二人ははあ、と嫌味っぽくため息をついた。

 なんかもう、ぐだぐだである。侍医院にはこの男しかいなかったのだろうか……。


(まあ、早朝だしなあ。人員が手薄な時間なのは間違いない)


 人員不足のあおりを受けるのは患者である。

 軽く着物を羽織った状態で横たわっている杏喜。誰も水を与えていないので、依然として苦しそうに呼吸している。可哀想に、七淫子はまだだろうか。


「海里さん。もらってきました」


 ちょうど七淫子が帰ってきた。手には二つ小さな袋を持っている。


「おかえり。例のものは貰えた?」

「はい。夏答応が使うと話したら頂けました」


 袋を受け取り、中をのぞく。

 うん、これだけあれば十分だ。

 控室にある鍋に水を汲んでくるようお願いする。


「この傷のところまでお願いね」

「わかりました」


 そして、満を持して口を開く。


「ねえねえ、医官さん。その子、風邪じゃないと思うよ。湯あたりじゃないかな?」

「ななっ!? あっ、お前は海里じゃないか」


 わたしのことを覚えているらしい。わたしはこの医官を覚えていないけれど、雑用係の用事で一言二言会話をした医官もいた。そのうちの一人だったのだろうか。


 するりと番台から降り、彼らのもとへ近づく。

 女官たちは警戒心をあらわにしたが、医官と知り合いだということを認識したためか、黙っている。


「雑用係に何がわかる!」

「ええ~? これくらい誰だってわかるよ。とにかく、杏喜が可哀想だからお水をあげようね」

「無礼者! 宦官が呼び捨てにするなどおこがましい!!」

「はいはい……」


 聞き流していると、七淫子が水を入れた鍋を持って戻ってきた。


「これでよろしいですか?」

「うん。ありがとう」


 普段茶を飲む湯を沸かしている鍋である。

 七淫子が御膳房から貰ってきてくれた小袋を取り出し、みんなに見せる。


「これは塩と砂糖。湯あたりの時は身体が脱水症状になっているから、塩分と糖分を補給するといいんだよ」

「こら。わたしは風邪だと言っているんだ」

「でも、女官さんは熱なかったって言ってるじゃん。お風呂に入った途端に発病するかなあ? 杏喜はずいぶん疲れた状態でやって来たし、状況的に湯あたりの方がしっくりくると思わない?」

「ぐっ……」


 言葉に詰まる医官。

 経験が少ないので、発熱と発汗という症状だけで、風邪と決めつけてしまったのだろう。あるいは妃嬪を相手に緊張して正常な判断ができなかったのかもしれない。

 女官に目を向けると、黙ってはいるものの、反論はない様子だ。


「だから早くお水をあげないと。ただの水じゃなくて、塩分と糖分を加えることで、より身体に吸収されやすくなるんだよ」


 そういうわけで、さっそく経口補水液を作ることとする。よく熱中症で飲むものだが、湯あたりでも使って差し支えない。

 小袋を手に取ると、わしっと腕を女官に捕まれた。


「……待ちなさい。まず、わたしがそれを毒見します」

「あ、うん。別にいいけど」


 女官は塩と砂糖の入った袋に指を入れ、ぺろりと一舐めする。

 そしてもう一人の女官と視線を交わし、頷いた。


「確かに塩と砂糖です」


 そして七淫子が持ってきた鍋の水も同様に確認していた。


(妃嬪様の飲食するものは、逐一お付きの者が毒見するってことか)


 万が一毒が入っていたら、毒見役はただでは済まないのに。大変な世界だ。

 安全が確認されたところで、作業に戻る。


「いつどこでもできるように、目分量でのやり方を教えるね。まず、水を一リットル用意します。……あれ、リットルって通じるのかな? えっと、一升の半分ちょいくらいね」


 侍医院では斗とか升とかっていう単位を使っていたことを思い出し、言い直す。

 単位もそうだし、ついカタカナ語が出てしまうことがある。侍医院時代では呂岳に、今は七淫子に変な顔をされることも多い。


 神妙な面持ちを浮かべる四人を前に、説明を続ける。


「それで、砂糖一つかみ。塩は一つまみ入れる。水が透明になるまでかき混ぜるよ」


 お玉でしばらくかき混ぜれば、経口補水液の出来上がりだ。陶製の湯飲みに移し、女官に手渡す。


「さ、早く飲ませてあげて」


 女官の表情は半信半疑。

 湯屋の宦官の言うことを鵜呑みにしてよいものか? その戸惑いと葛藤がありありと見て取れた。


「試してみる価値はあると思うけどなあ。もしインチキだったとしても、塩と砂糖が入ったただの水なんだから、身体に悪いってことはないでしょう」


 そう駄目押しすれば、女官たちははそれはそうだという表情になった。あるいは頼りなさ過ぎる医官よりはマシだと判断したらしい。二人は杏喜をゆっくりと抱き起し、口に湯飲みを添えて傾けた。


 ごく、と喉が上下に動く。

 一口流れ込めば、杏喜は湯飲みに手を添えて、すごい勢いで飲み始めた。湯飲み一杯はすぐになくなり、おかわりを提供した。


 経口補水液を摂取して五分ほど経てば、彼女の状態は明らかに改善していた。

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