これは夢だ
目を開くと、雲一つない青空が広がっている。視界の隅には木々が映り、少し肌寒い。店中に充満している生薬のかぐわしい香りはせず、かわりに森の新鮮な空気のにおいがした。
「えっ……? ここは一体……痛っ!!」
体を起こすと、ズキンと頭が拍動する。側頭部に鈍い痛みがあった。
痛むところを押さえながら立ち上がる。
周囲を見回すと、やっぱり森だ。しかも、見覚えがない。家のや職場近くの森なら、よく薬草を探しに行っていたから覚えているはずだけど……。
「ええ……? どういうこと? しかも寒いし。蝉はどこに行ったのよぅ」
今は八月。いくら北海道だってこんなに寒いはずがない。
長袖の白衣の下は、半袖のシャツに黒のスキニーデニム。この格好で寒いだなんて、季節が違うとしか思えない。
――きょろきょろと左右に目を向けても、なんの変哲もない森林である。
状況把握をするべく、ぐっと足裏に力を入れて立ち上がる。
さく、と青い草を踏みしめて歩き出す。
木々を眺めながら、明るい日が差すほうへ向かっていく。そのなかで、あることに気が付いた。
(これ、日本に生育している木じゃなくない……?)
目の前に生えている、緑の細長い葉をつけた木は盆架樹である。本来、中国の雲南省から広東省南部に生育するものだ。樹皮からアルカロイドが採れ、咳止め、止血などの薬用になる。
ざらざらとした幹にそっと手を触れるも、なにか分かるわけではない。
もしかしたらわたしの知識が漏れているだけで、実は日本でも生育している可能性は十分にある。
十分ほど歩いたところで、開けた場所に出た。
――誰かが休憩していったような跡だ。炭化した焚火のまわりに麻袋、紙屑が散らばっている。
それらをじいっと見下ろして、しばし思案する。
「……もしかして、キャンプ場なのかな。……あ、あっち。森が開けてる」
少し先に、木々の隙間から空が裂けて見えているところがある。
どうやらここは小高い場所になっているようだ。そこから周辺を見渡せば、現在地についてヒントが得られるかもしれない。そう期待してそろりそろりと崖に近づく。
「えっ……?」
――――見下ろした先に広がっていた光景は、明らかに日本ではなかった。
一体どういうことだ? 反射的に目が見開かれる。
言ってしまえば、中国である。しかも、現代ではなく歴史の教科書で見かけた風景に近い。近代的な建造物が一切見てとれないのである。
眼下に広がる街。その中央にあるのは壁で囲われた広大なエリア――朱色が鮮やかで、立派な建物が立ち並んでいる。そして壁の外側に限りなく広がるのは、背の低い灰色の建物が立ち並ぶエリア。街は、その二つに明確に区切られていた。
わたしに学はない。しかし、それでも一瞬で理解した。目の前に広がる景色が、身体を包み込む空気が教えてくれる。ここはどう考えたって、日本であるわけがないと。
膝の力が抜けて、へなへなとその場に座り込む。
「中国、中国、中国……?」
それ以外の言葉が出てこない。
いったいぜんたい、わたしはどうして中国にいるのだろう? つい十分ほど前までは、職場の漢方薬局で店番をしていたはずなのに……。
これは夢だ。そうであってほしい。もはやそう思うしかなかった。
しかし、わたしの鼻をつく森の青々とした香り、耳に入る知らない鳥の鳴き声、そしてこちらに近づく複数の話し声は、夢にしては現実的過ぎる感覚だ。
「――え、話し声?」
呆気に取られていたため、気が付くのが遅れた。
(よかった! ここはどこか、どうやったら職場に帰れるのか、教えてもらえるかもしれない!)
早く帰らないと、またさぼっていたのかと怒られてしまう。
期待を抱きながら、話し声と足音がする方に向かって急ぎ歩く。
「――でもよう。今回の女共はあんまり上等じゃねえなあ」
「仕方ねえだろ。どこも取り締まりが厳しくなってんだ。あの正義感に溢れる皇太子様のお陰でよ」
「質が駄目なら数で値を引き上げるしかねえ。もうあと一人二人追加したいところだ、女を見つけたら騒がれる前に掻っ攫え。最悪、男でもいい。下男でも小銭にはなるからな。いいな!?」
「「へいっ!!」」
どくり、と心臓が跳ねた。
粗野な言葉遣いに、野太い大声。
なんということだろう。この男たちは、女性を攫って売りさばくことを生業としているらしい。
喉に張り付いた唾を、ゆっくり嚥下する。
(…………とりあえず、お酒が飲みたい)
想定外の展開が連続しているおかげで喉がからからである。もし今キンキンに冷えたビールを飲んだのなら、さぞかし旨いだろう。家に帰ったらまず酒を補給しないといけない。
そんな場違いな妄想が頭をよぎるも、すぐに現実に引き戻される。
「逃げないと……!」
――とはいえ後ろは崖。音が近づくのは左方向だ。であれば、逃げ道は右方向しかない。男たちの進行方向にあたるが、大丈夫だろうか。走る音に気付かれて追いかけられたならば、のろまな自分に勝ち目はない。
「……隠れよう」
一瞬で決断する。どんどん声が近づいてくる。これ以上考えている時間はない。
わたしはとっさに腰ほどの高さの茂みに身を隠した。どうか気づかれずにやり過ごせますように。家に帰って美味しいビールを味わえますように。そう必死に祈りながら。