喘息と柴朴湯
次の夜は、開店一番呂岳がやって来た。
「海里っ! ごめん。本当にごめん。ちゃんと謝る間もなく時が過ぎてしまって……。昨日来ようと思ったんだけど、常敏様が行くみたいだったから今日にしたんだ」
全然気にしてないからいいよ。と言うのは簡単だ。
しかし、ここぞとばかりにわたしは悪知恵を働かせた。悪女のような笑みを浮かべて呂岳をねめつける。
「お願いを聞いてくれたら許してあげる」
「なっ、何だ!? 俺にできることなら何だってする!」
必死な呂岳の良心を利用するのは悪いが、わたしももう限界なのである。
ずいと左手を差し出し、アピールをする。
「酒。お酒をちょうだい。そしたらまた仲良くしてあげる」
「なっ! お前、まだ酒に執着してたのかよ!」
「もちろん。わたしは薬の次に酒が好きだ。そしてその他のことには一切興味がない」
「なんつー性格だよ……」
頭を抱える呂岳。
そしてぶつぶつと「実家に頼んでみるか」「給金を貯蓄しておいてよかった」などと小さく呟いた。
しばらくして顔を上げた呂岳は、苦虫を嚙み潰したような顔でこう言った。
「わかった。わかったよ。手配するから、少し時間をくれ」
「ありがとう呂岳! 持つべきものは呂岳だね! あっ。ちなみに、本当は怒ってないからね。むしろ巻き込んでごめんなさい」
「わかってる。お前はそういう奴だよな」
ひらひらと手を振った呂岳は、ちゃりんと湯銭をわたしの手のひらに落とす。札を受け取り、脱衣所へと進んだ。
(呂岳は真面目だから、お金を貯め込んでいそうだな。ふふっ。いいお酒が手に入るかもしれない!)
この世界にやって来ておよそ一か月。お酒抜きでよく頑張ってきたと思う。
二十歳になったその日に酒の旨さを知って、その日から一日たりとも酒を欠かしたことはない。きっと、一か月ぶりに飲む酒は滅茶苦茶美味しいに違いないと、今からすごく楽しみだ。
呂岳の引き締まった尻を眺めながら、この世界の美酒はどんなものだろうかと思いを馳せた。
◇
営業終了後。
残り湯をいただいて風呂を出ると、掃除している七淫子が咳をしていた。
「どうしたの? 風邪?」
「海里さん。いえ、これは昔からなんです。夜間や埃っぽいところに行くと咳が出るんです」
「ああ。喘息持ちなんだね」
「ぜんそく……? すみません、わからないです」
医者にかかったことがないからわからないと言う。しかし、ヒューヒュー喘鳴がする咳の様子や、症状の出るタイミングからすると喘息と見てほぼ間違いないだろう。
(かわいそうに。苦労して育ってきたうえ、持病もあるのか)
湯屋で働いている以上掃除はしなければいけない。大人になれば自然とよくなるパターンもあるけれど、だからと言って放置してよいというわけではない。呼吸困難を起こすこともあるから、適切な処置をしたほうがいいのだ。
「じゃあ、わたしが薬を作ってあげる」
「えっ! 海里さんが!?」
「うん。その前にいくつか質問させて」
漢方薬の選定には、体質を見極めることが重要だ。単に症状に対して薬を出すこともあるけれど、むしろそれは稀。体質に対して薬を出すことが基本である。
問診をして、症状や体質を把握する。望診をして、顔色や体型、動作のくせを把握する。さらに聞診をして声の調子や呼吸音を把握し、切診で脈と腹の圧を確認する。
この四つ――問診、望診、聞診、切診が漢方の基本的な診察方法だ。
「――――ありがとう。じゃあ作ってくるね」
「あっ、ありがとうございます……」
きょとんとした表情の七淫子を置いて控室に戻り、仁芳先生が餞別にくれた生薬を取り出す。
(症状は半表半裏、気滞に水滞。柴朴湯でよさそうだ)
構成生薬は柴胡、黄芩、人参、甘草、大棗、生姜、半夏、厚朴、茯苓、蘇葉。
ただし、貰ってきた生薬はそれぞれ一さじぶんしかない。一日分しか作れないから、今後は呂岳に頼んで都合してもらおう。持つべきものは呂岳である。
完成した柴朴湯を七淫子に渡すと、えらく感激してくれた。
「僕の薬ですか! ありがとうございます……っ!」
「材料が届いたら、また作るからね。一日三回しっかり飲むんだよ」
宝物のように柴朴湯を抱きしめる七淫子。こんなに大切にしてもらえて、柴朴湯も嬉しそうだ。
しかし、七淫子は突然はっと顔をこわばらせた。
「海里さん……。僕の給金で代金を払えるでしょうか?」
雑用係の給金はほんのわずかだ。侍医院から湯屋に来る時に常敏から受け取ったそれまでの給金は銅銭十枚。たしか侍医院にかかるには最低でも銀子一両が必要だから、七淫子の給金ではまかなえない。
(でも大丈夫。なんたって呂岳がいるからね)
呂岳には貸しがある。いや、本当はないんだけれど、呂岳は気にしているのでこの際利用させてもらう。先日酒のおねだりをしてしまったが、まだ届かないので次の要求をしてもいいだろう。――そうでなくても、真面目な呂岳なら七淫子を見捨てるようなことはしないだろうという確信があった。
「お金のことは気にしないで。侍医院に知り合いの医官がいるし、調合はわたしが無料でやってあげる」
そう伝えれば、七淫子は安心したようだった。さっそく柴朴湯を煮出すべく、鍋の用意をし始めた。わたしは風呂で温まって眠くなってきたので、座布団を枕にしてごろりと横になる。
「あっ、海里さん。まだ後片付けは終わっていませんよ!」
「少しだけ。少し寝たらやるからさ」
「そう言って昨日も起きなかったですよね!?」
ぷりぷりしている七淫子だけれど、どこか嬉しそうだ。
――控室に漢方の濃厚な香りが漂う。身体を癒し、心を癒す不思議な香り。久しぶりに触れるその心地よさにあてられて、わたしは重い瞼を閉じたのだった。




