侍医院最後の夜
――結果。
百回打たれても死ななかったけれど、瀕死にはなった。
ただでさえ山から転げ落ちて満身創痍のところに、若い男性の力でボコボコにされたのである。丈夫が取り柄のわたしだけれど、立ち上がることもままならない。台から引きずり下ろされて、倉庫に打ち捨てられた。
「本当にしぶとい宦官ですね。まあ、いいでしょう。あなたを湯屋に運ぶ人員がもったいないので、今日は休みとします。明日から湯屋に行ってください。では」
「海里……っ! すまない、本当にすまない……! 痛かっただろう。ああ、俺はなんということを…………!」
「呂岳。あなたは仕事ですよ。帰りましょう」
号泣しながらわたしに駆け寄ろうとする呂岳の襟を引き、常敏は去っていった。
(――――――あー……)
しんどい。脂汗を拭きたくて左手を上げようと試みるも、布団から数センチ浮かすのがやっと。そのままぱたりと敷布団に落ちる。
全身が痛い。はあ、何でこんなことになったんだっけ。
(――でも、呂岳は手加減してくれたな)
力を抜くと常敏にバレるから、打つポイントを調整して、なるべく痛くないようにしてくれていた。ごめん、ごめんよお、と嗚咽しながら棒を振り下ろす呂岳がとても哀れだった。
(すごい気にしてたなあ。呂岳は何も悪くないのに……)
早く元気になって呂岳を安心させてやらないと。
心身共に疲れていたわたしは、とりあえず眠ることにした。
◇
目を覚ますと夜だった。
未だ全身は痛むが、寝る前よりはマシだ。ゆっくりと起き上がり、怪我の程度を確認する。腕や足、腰に無数の紫色の打ち身ができていた。
(打ち身がすごいけど、これも呂岳の気遣いだ)
一つの部位を百回打てば、骨が折れたかもしれない。腰を集中的に打たれでもしたら半身不随になった可能性だってある。
打ち身はすごいことになっているが、分散して打ってくれたことで軽傷で済んだ。不幸中の幸いである。
「よっこらしょっと……」
気合を入れて立ち上がる。建てつけの悪い扉を開けば、地面に夕飯の冷や飯が届いていた。
腹が減っては戦が出来ぬ。明日から湯屋に左遷だから、最後の晩餐だ。
ただの冷や飯も、噛みしめれば優しい甘みがあって美味である。好きなものを好きなだけ食べられた日本時代では気付けなかったことだ。
夕飯を終えて、最後の夜になにをしようかなあと考える。
(…………やっぱり、薬が気になる)
生薬に関わる前に左遷となってしまったことが惜しい。
最後に少しでも生薬を眺め、もしできることなら、ちょっぴり分けてもらいたい。
今夜の宿直当番は誰だったかな、と思いながら侍医院に向かった。
――中にいたのは、以外にも医院長だった。
「仁芳先生」
「おや、海里。こんな遅くにどうしたの?」
調剤机を前にしてちょこんと座っている初老の男性。侍医院の医院長、蘇仁芳先生だ。まるまると太っていて、わたしよりも背が低いことから、偉い人なのにどうしても可愛く見えてしまう。
折れた右腕の処置をしてくれた人でもある仁芳先生は、落ち着いていてとても優しい。日頃のかかわりが薄いだけに、もっと話してみたいと思っていた人物だ。
「実は、明日から湯屋で働くことになっちゃって。最後だから、生薬と触れ合いに来ました」
「おやそれは……」
先生の向かいに腰かけると、先生はわたしの左腕に注目した。そこには大小さまざまな痣が見えていた。
「ああこれは。朝、棒打ちの刑を受けたんです。でもこの通り元気に動けますので、処置はしていただかなくて大丈夫です」
「そういうわけにはいかないだろう。明日ここを離れるなら尚更だ。今、いい薬を作ってあげるから」
そう言って先生は立ち上がり、調剤を始める。
使用する生薬が入っている引き出しをちょいと開け、無駄のない動きで計量してゆく。そういえば、侍医院に来てから人が調剤するところを初めて見た。
わくわくしながら先生の動きを眺める。
(桃仁に大黄、桂皮、……川骨。――桃核承気湯に似たものだろうか)
舟に生薬をまきながら先生が顔を上げる。
「少しお腹が緩くなるかもしれないけど平気かな?」
「大丈夫です。どちらかと言えば便秘気味ですので」
「じゃあ、丁度いいね」
桃核承気湯に含まれる大黄は、お通じが緩くなる作用がある。デトックス効果のある生薬だが、その働きから、虚弱者や下痢体質の人には向かない。
先生は手早く桃核承気湯もどきを分包し、ぐつぐつ言っている鍋に一つポイと投げ込んだ。
「桃川承気湯という薬だよ。三十分煮出して飲むから、少し待っていてくれるかい」
「ありがとうございます。もちろん待てますよ。むしろ、今日は徹夜の覚悟でここに来たから!」
「生薬と触れ合うために来たと言っていたね。海里は薬が好きなのかい」
先生は元いた席に戻り、穏やかな視線をわたしに向ける。
「はい。わたしはいつか丹薬を作りたいんです。そのために、ありとあらゆる薬の勉強をしているところなんです」
「不老不死の丹薬、かい」
「はいっ!」
「ほほう、それはそれは……」
先生は白いひげを触りながら何回か頷いた。
「その志はうちの若い者にも見習ってほしいくらいだ。いつか、できるといいね」
「ありがとうございます。頑張ります!」
丹薬作りを応援してくれる人は、これまでの人生で殆どいなかった。『危ないからやめた方がいい』『そんなもの作れるわけがない』――多くの人はそう言った。まあ、別に応援してほしいわけじゃないし、否定されたから諦めるわけでもないから、何と言われようと構わなかった。
――とはいえ、先生のその言葉はすごく嬉しかった。
「餞別に、薬さじ一杯までなら好きな生薬を持って帰っていいよ。……常敏のしたことのお詫びも含めてね」
「えっ! 本当ですか!?」
なんということだろう! 好きなものを好きなだけ、という言葉はいつだって人の心を躍らせる。生薬持ち帰り放題の権利を獲得して、わたしはますます先生が好きになった。
――しかし、「常敏のしたことのお詫び」については心当たりがない。
「わたし、別に常敏に何もされていませんよ。ああ、今日の棒打ちの刑はわたしが湯屋行きをごねたからです。しんどかったけど、別に理不尽ではありません」
「…………そうか。海里は気が付いていないのか」
困惑した表情を浮かべる先生。
はて、とこちらも困っていると、一応といった感じで先生は続けた。
「常敏は選民思考が強くてねえ。身分の低い者、特に平民出身の者には当たりが強いんだ。医は仁術、病の前に身分無しと何回も注意しているんだけれど、どうにも分かってくれない」
なんでも彼の実家は名のある高貴な家らしく、それより身分の低い人の言うことは、分かったふりをして聞かないらしい。上司にはいい顔をし、下の者には陰で嫌がらせをする。そんな二面性のある性格らしいが、医術の実力は確かなため、侍医院には必要な存在なのだという。――仁芳先生のオブラートに包んだ話を要約すると、そういうことだった。
「常敏って、見るからに良いところのお坊ちゃんって感じですもんね。そういう家で育ったんなら、受け入れられないことの一つや二つありますよ」
「海里は器が大きいんだねえ」
なんだかわたしが良い人のように言ってくれているけれど、実際のところ、常敏にそれほど興味がないだけだ。そして、やはり詫びられる心当たりはない。
しかし、これ以上追及して「やっぱり勘違いだった。だから生薬はあげられない」と言われたら困る。常敏の話題は終了とし、さっそく生薬をもらうことにする。
ちょうど往診に出ていた医官たちがぞろぞろと帰って来たので、先生は報告を受けるためにそちらへ移動する。最後に先生はいつもの穏やかな笑みを浮かべて「海里。機会があったらまた戻っておいで。君と仕事をしてみたい」と言ってくれた。
「……はいっ! ぜひ!!」
一瞬何を言われたのか分からなくて返事が遅れる。
――――この言葉が一番の餞別だと、心からそう思った。
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