棒打ちの刑
「はいっ!?」
呂岳は思いがけない命令に、裏返った声を上げた。
しばしの間言葉を失っていたが、常敏が黙っているので、おろおろと話し始める。
「お、お言葉ですが常敏様。このような貧弱な宦官を百回も打ったら死んでしまいます」
「命令に背いた罰なのですから、仕方がないでしょう。これは規則で決まっていることです」
「は、はぁ……」
弱りはてた呂岳は、唸りながら己のおでこを揉み始める。
その様子を見て、いたたまれなくなってきた。
(呂岳を困らせている。湯屋には行きたくないけど、ここで食い下がったら彼も巻き込んでしまうかもしれない)
丹薬作りは最重要課題に違いないが、無関係な人に迷惑をかけることは本望でない。呂岳は真面目で未来ある若者だ。わたしを庇ったことによって立場が悪くなることは避けたかった。
(………………いいや。いったん湯屋に行って、機をみて逃げ出せばいい)
腹を決めたわたしは、全てを受け入れることにした。
ふう、と大きく息を吐いて口を開く。
「わかった。湯屋に行くし、棒打ちの刑も受ける。呂岳、遠慮しないで打ってほしい」
「お前……っ!」
焦る呂岳に、ふっと笑みを取り戻す常敏。
場を支配していた緊張感がゆるんだ瞬間だった。
「それでいいのです。では外へ」
屋外に出ると、朝の涼やかな空気と青空が心地よい。いつもならば素敵な一日の始まりを予感させる天気なのに、これからわたしは棒打ちの刑を受けるのだ。
どこからか台と棒が持ってこられ、台の上に寝そべるように促される。一メートルほどの棒を渡された呂岳は顔面蒼白だ。
(人を打つなんて、気分悪いだろうなあ。ごめん呂岳)
――ひんやりとした台に寝そべり、目を伏せてその時を待つ。
怖くはない。けれど、先ほど呂岳は百回も打ったら死ぬと言っていた。もちろん大げさに言っているんだろうけれど、もし死んだら困るなあ、なんて思う。
「では呂岳、始めてください」
「……………」
呂岳は棒を持ったまま立ち尽くしている。棒を持つ手はぶるぶると震えていて、唇はぎゅっと引き結ばれている。何かと葛藤しているような様子であった。
「……呂岳? わたしの指示が聞こえなかったのですか」
常敏がどこか面白そうな声で尋ねる。
「……俺にはできません。どうしてもこの刑を行わねばならないのなら、別の者にやらせてください」
「……ほう? あなたもわたしに逆らうのですか?」
くいっと常敏の口角が上がる。
――まずい。わたしにも分かるくらい不穏な空気が流れ始める。
(常敏が怒っちゃう! このままでは呂岳まで棒で打たれてしまう)
もしかして、常敏の口角上げは、面白いと見せかけて実は面白くないときに出現する法則なんじゃないか? ――わたしは世紀の大発見をした。
規則に厳しい常敏のことだから、呂岳まで処分しかねない。何の関係もない呂岳が棒で打たれるなんて理不尽だ。
慌てて呂岳に呼びかける。
「いいよ、わたしは大丈夫だから! あんたのことを恨んだりしない。このままわたしを庇って呂岳まで罰を受ける方が嫌だよ。さ、早く」
散々いいって言っているのに、呂岳は立ち尽くしたまま今にも泣きそうだ。どこまでも真面目な男である。
「どうしますか、呂岳。……あなたが侍医院を追い出されでもすれば、親御さんは何と思うでしょうね?」
「……!」
――その言葉は、効果てきめんだったようだ。呂岳はいっそう強く歯を食いしばる。唇には赤いものが滲んでいた。
そりゃあ呂岳の親御さんだって悲しむだろう。だけど、今ここでそれを引き合いに出すのは可哀想なんじゃないかと思った。追い込まれた呂岳が本当に気の毒だ。早く終わらせてあげないといけない。
「はい、さっさとやっちゃって。この態勢も結構しんどいんだから」
もちろん嘘である。台に寝そべっているだけで辛いはずがない。しかし、その矛盾に突っ込みを入れる者はいなかった。
眼鏡の奥に涙をいっぱい溜めた呂岳がわたしを見た。
「…………ごめん海里。俺は……俺は、とんでもない恩知らずだ」
「いいって。そんなこと思わないよ。湯屋に豆を持ってまた遊びに来てよね」
ううっ、と呂岳は嗚咽交じりに唸る。
眼鏡の下から一筋の透明なものが流れ落ちる。全身がぶるぶると震えていて、嗚咽に合わせて肩が上下する。
「いいですか。手加減していると判断したら、最初からやり直しですからね」
常敏は近くの岩に腰を下ろし、悠然と腕と足を組む。見物の姿勢に入ったようだ。
何が面白いのか全くわからないが、その顔はいつもの張り付けた笑顔ではなく、心から楽しそうな笑みだった。
(常敏は悪趣味だ)
はあ、とため息をつく。
びゅんと、何かが風を切る。
わたしは静かに目を閉じた。




