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白腥臥

 ドンッ!!


 背中に強い衝撃を感じ、ぐっと息が詰まる。


(――――ッ!?)


 何が起きた?

 把握する前に、わたしの身体は眩暈を起こしたかのようにバランスを失う。

 いきなり強く前に突き出されたことによって、手に持っていた水筒が宙に舞い、身体は急斜面に向かって飛び出す。


 受け身を取る暇もなかった。

 耕作されていない急斜面は雑草や木が生い茂っている。身体に刺さる小枝や、背中を打つ岩に顔を歪めながら、わたしは転落していった。


 バキバキボキッ!! と耳元で鳴る恐ろしい音。ぐるんぐるんと回る視界。天も地もなくなり、ひたすら耐え忍ぶ。その時間はひどく長く感じた。――――身体中を襲う痛みが止んだとき、ようやく目を開く。


「痛てて…………」


 ゆっくりと起き上がって、状況を確認する。


 手の甲は切り傷だらけ。雑用係の制服はぼろぼろで、所々血が滲んでいる。おまけに草鞋(ぞうり)はどこかに行ってしまって、裸足になってしまっている。

 背中やお腹、足まで身体全体が痛い。なかでも右腕は異常ともいえる激痛だ。


「こりゃ、折れてるかもしれないな」


 そろりと色の悪い右腕をなでる。

 むかし骨折したことがあるので、そのときの心地悪い感覚は覚えていた。


(右腕以外は大したことなさそうだ。頭を打たなくてよかった)


 ひとまず安堵して落ちてきた方を見上げる。先ほどまでいた畑ははるか上のようで、ここからでは確認することができない。


(登れるかな……? いや、厳しそうだな……)


 試しに登ってみるも、足が滑ってすぐに転んだ。そもそも運動神経がないのである。


 途方に暮れて正面を見ると、――そこには思いがけない光景が広がっていた。


「ここは、一体……」


 驚きのあまり、言葉を失う。


 一面に咲き誇る桃色の花。

 木々の高さは三メートルほどで、それぞれが枝一杯に花をつけている。

 鼻に香るは、ジャスミンのように涼やかで甘い芳香。まるで別世界に来てしまったかのように鮮やかな光景だ。


(……桜? いいや、これは桃だ)


 ここはもしかして桃源郷なのだろうか。

 そう思わずにはいられないほど見事な桃園であった。


「こんな場所があったなんて……」


 吸い寄せられるように桃園へと足を踏み入れる。

 ここは山の裏側。侍医院とは反対方向であり、城の敷地でいうと最も僻地にあたる。それなのに、こんな素敵な景色があっただなんて。

 とても見事なのに人の気配はない。それとも昼になれば、見物人がたくさん訪れるのだろうか。


(……ここに来るには侍医院の前を通らなきゃいけない。そんな人通りはなかったと思うけど)


 わたしの知らない経路があれば話は別だけど。

 でもまあ、どうでもいいかと思う。とにかく今はこの美しい桃の花を愛でていたい。


 ――――そうして桃の楽園を見て回っていると、ふと数メートル先に人がいることに気が付いた。

 桃の木の影から現れたその女性は、女のわたしが目を見張るほど美しかった。


 真っ白な髪に金や銀の簪をさし、優雅に結い上げている。ちいさな顔と同じくらいあろうかという深紅の芍薬が実に鮮やかで、絹糸のような髪によく映えている。衣は一目で上質なものと分かる光沢と鮮やかさで、幾重にも羽織ったそれを宝石がたくさん付いた帯で止めていた。


(ここに来てから初めて女の人に会った。それにしても綺麗だなあ……!)


 思わず見とれていると、女性はわたしに気が付いて歩みを止めた。


 真っ赤な口紅をさした妖艶な唇が弧を描く。――その動作一つさえ完璧に優雅で、目が縫い留められる。


「妾に何か用か?」


 淀みのない、透き通った声。

 細くて儚い美女なのに、放つ圧倒的なオーラが彼女を何倍にも大きく見せた。


「いえ……。あの、あなたはどちら様ですか?」


 他人に興味が無いたちだと自覚しているけれど、思わず名前を尋ねてしまう。

 女性はこちらに来るわけでもなく、その場で返事をする。


白腥臥(はくせいが)


 それだけ言うと、彼女は長い紗を引きずりながら去っていった。


「白、腥臥……さん」


 桃源郷に住む女神なんだろうか。

 去り際にわたしの目をしっかりと捉えた、黄金の瞳が脳裏に焼き付いている。


(……あんな美しい人初めて見た。帰ったら呂岳に知らせなきゃ!)


 今になってドキドキしてきた胸を抑えつつ、わたしは急いで侍医院に帰った。彼女の去った方に進んでいったところ、見知った道に出ることができたのだ。


 折れた右腕の痛みなど忘れるくらい、まさに夢のような出来事であった。

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