ファム・ファタルたちへ
あまりにも寒いと手元に火が欲しくなる。今はそういう季節だ。熱を求めてポケットに手を突っ込んだり、悴んだ手に息を吹きかけたり、まさに無意味と言わざるを得ない。底冷えするような寒さが足の先からどんどん体の熱を奪っていく。人体の恒常性など、大いなる地球に敵うわけがなく、静かに身震いしてはイルミネーションに彩られた通りを見て笑っている男女をぼんやり見ていた。すでに内臓のみ熱を持っていて、末端は切り捨てる覚悟だった。
なんてことだ、雪まで降り始めたではないか。ホワイトクリスマスなんて騒ぐのは日本だけだと言うのに、今日はきっとホールケーキが売れて、ラブホテルが賑わうのだろう。舌打ちをする気にもなれないほど、彼女の気持ちは虚しく、それでいてこのまま死ぬんじゃないかなんて大袈裟な気持ちにさせた。実際大袈裟ではないのかもしれない。丁寧に手入れされた黒い艶やかな髪は雪に触れ、凍え、鼻から溢れた白い息のように染められつつあった。黒色のコートの壁を隔てるだけではとても耐えられそうにない。
「寒そー」
人というのは不思議なもので、その声が自分に向けられたものか、そうでないのか、分かるという。彼女もそれには鋭敏だった。反射的に振り返るが、脳はその声の主を記憶から探していた。いやはや検索結果には引っかからず、振り返りきる頃には誰だろう、と首を傾げるに至った。黒髪はやはり美しく理想的に揺れた。
自分の左斜め後ろから声をかけたのは歳の近そうな少女だった。寒くないのか、白のダウンを開けており、その隙間から見える限り、高校生らしく制服を着ていた。荒れていると有名な公立高校の制服で、髪色や着崩しはそれに準ずるように不埒だった。栗色の髪はやや傷んでおり、耳の後ろのツインテールはあどけなさとあざとさをより顕著に際立たせていた。それに、ずいぶんスカートも短いし、こんな格好を好むのはやはり知り合いにいなかった。
彼女は無言のまま、目の前のふしだらそうな少女をじっと観察していた。淡いピンク色のマフラーが暖かそうだ、それに、なんというか、随分胸の大きい…。
「ね、何してんの?パパ待ち?それともカレシ?」
少女は隣に座り込んだ。時刻はすでに22時を回っていた。
「…家出です」
援助交際をしていると思われるのは癪で、弁解のために口を開くがようやく出た声は掠れていた。冬の乾燥した空気に、鼻は粘膜が膨張して口はカラカラだった。唇もかさついており、今あくびの一つでもすればパックリ割れてしまうだろう。
少女はへえと驚いた声を出した。棒がついた飴玉の包装紙をぺりぺり、慣れた手つきで外して口に入れた。何味だったかは見えなかった。食べたことがないには違いない。
「その制服さぁ、あそこだよね。中高一貫の私立のさぁ。お嬢様なのに、なんで?」
間抜けな問いかけに、なんでこいつにと思いつつも、この静かな雪の中で2人きり、寂しさがあったのかもしれない。初対面の人間に話すつもりはなかった、普段であれば。
「全部嫌になってしまって、帰りたくなくて」
「うん」
「どうでもよくなってしまったんです。本当、些細で子供じみた動機ですが、…疑ってしまったんです。今、この場にいるのは私である必要はないのでは、と」
「へえ」
「誰かが私と同じことができるなら、私である必要はありません。私の代わりなんて掃いて捨てるほどいます。学校にも、家にも」
「…」
「私は、いらないんです」
その言葉は自分で言ってて何だか切なかった。ぽこっと腹に開いた穴を覗かれているような、羞恥と無言の罵倒を浴びる。
「アタシと一緒だね」
少女の言葉に、今まで目線を逸らしていたのが強引に引っ張られる。少女は笑っていた。心底うれしいことがあったかのような笑みに、彼女はひどく共感を求めた。
「ウチね、新しいお父さん来てさぁ。今度弟が産まれるんだぁ。でもね、お父さんは、アタシのこと子供と思ってないんだぁ。他所の女の子と思ってて、多分、ママより弱くて簡単でぇ」
間伸びする言い方は内容に比例せず、深刻さを訴えなかった。彼女は少女を見ているというのに、少女は目を逸らして微笑んでいる。スカートを膝より10センチも上にしているのに、少女の顔はどこか大人びて、哀愁漂い、諦念していた。
「だからね、アタシ死ぬつもりなんだよ」
何でもない日常の一言のように少女は明るく言い放った。笑っているその顔は、イルミネーションでわかりにくくも隈がくっきり出ていた。コンシーラーでは隠しきれないほど、濃い隈だ。今がもし昼間なら、少女の隠したいことはお天道様の下で晒される。
父親に何をされたとか、母親は何をしてるとか、所詮他人だとか。否、もう彼女に他人とは言いたくなかった。よっぽどひどい人生を送っているはずなのに、私は何と恥知らずなことか。少女を前にして自分の存在価値を問うなどと非常に愚かしい。
恥を覚えて、彼女は少し前のめりになって少女の顔を覗き込む。しかし少女は見られたくないように顔をゆっくり逸らした。
「…死ぬんですか」
「うん。今寒いからさ、海に飛び込んだらきっと、あっという間。ちゃんと遺書も持ってる。読む?」
「…」
「読まないよねぇ」
愛想笑いを浮かべて、少女は立ち上がった。寒そうに震えて、それから作り慣れた笑顔を見せてくれた。
「ごめんねぇ、暗い話して。おとーさんとおかーさん大事にねぇ」
好き勝手言いやがる。彼女は胃の中に鉛が落とされるような感覚を覚えた。少女は真っ直ぐ立っても自分より身長が低く、そのくせ背伸びをして頭を撫でてきた。爪は噛む癖があるのか、歪な形をしており、また逆剥けが酷かった。
「じゃね、そろそろ警察の人来るから、ネカフェとか行った方が、」
「私も一緒に死のうか」
「だめだよ、人にそんなこと言っちゃ」
少女はそう言われるのをわかっていたかのように即答し、背を向けた。
「でもね、ありがとうねぇ。死んだらダメとか、誰それが悲しむとか、そんなこと言わないでいてくれて」
ああ、これでお別れ?話し始めてまだ20分かそこらなのに!
背を向けた少女は真っ直ぐ東へ向かっていた。びゅうびゅうと、雪は風さえも伴って、少女の背を押しているように見えた。
真冬の夜は、残り3メートルで後ろ姿を消し去るだろう。
大いなる地球が、あの子を殺そうとしている。
「ねぇ!」
彼女は力一杯叫んだ。少女は徐に振り返る。緩慢な動作は確かに生きる力を感じさせなかった。振り返った少女の前髪は風でぐしゃぐしゃだった。恐らく、彼女自身も。
顔が引き攣るのを感じる。寒さで表情筋がうまく動かない。唇が震えて、歯すら冷えている。
「なぁにぃ」
「…旅行!」
「ん?」
彼女は懐から封筒を取り出した。それなりの厚みがある。
「旅行!行きませんか!」
少女派目を見開いて、驚いた顔をしていた。
「いや、買います!」
彼女は少女に向かって走り、封筒を掌に押しつけた。口に咥えていた飴玉がころりとこぼれ落ちた。
「ここに30万円あります、これであなたを買います。足りないならまた取りに戻ります。あなたを買わせてください」
2人で目を合わせて、耳に風の音だけが聞こえた。雪が降る夜はこんなに静かだったか。少女は大きな目を上目遣いにして、掌には力一ついれなかった。ダメだろうか。でも、今の自分には、これしかない。
「このお金」
少女が振り返った時と同じように金に目を遣る。
「どうしたの」
「親から取ってきました」
さも当然のように答える。ああ、確か、この子の学校はバイト禁止なんだっけ。そりゃあ、じゃあ、親から取るしかないか。
「…あは」
何だ、そっか。別に死ぬって、そっかそっか。そーだよねぇ。それで、あいつら悲しいわけないもんねぇ。アタシが死んだところで、どーせ…。
少女は真剣に、それでいて緊張感を持った彼女の頬をつねった。びくりと体が跳ねたが、少女にさせるままに、むしろ屈む。
「いーよぉ」
一回の瞬きを挟んで、彼女は肩の力を抜いた。表情も柔らかくなって、よかったと言葉をこぼした。
「でもアタシ、ちょーヘラ子だよ」
「へ、ヘラ子?」
「メンヘラって意味。面倒臭いよぉ?」
「大丈夫ですよ、それに、私も似たようなものです」
「そーなのぉ?うん、そーっぽい!」
少女は彼女の腕を掴んで輝く笑みを見せた。
「アタシ夏宮。夏宮琴春!コトハルって男みたいでしょ?」
「そんなこと…可愛い名前ですよ。私は佐冬秋乃。サトウのトウは冬なんですよ」
「うぇ、珍しい。秋乃ちゃん、アタシお腹空いた。ファミレス行きたいなぁ」
「今晩は我慢してください。明日は必ず美味しいお店に連れて行きます」
「マジ?やったぁ!あと、敬語もいいよ」
「そういうわけにはいきません。それに…」
「に?」
「何でもありません。とりあえず、泊まれるところを探しましょうか」
「女2人でもホテル行けるよ、行こ」
「おやまぁ、積極的で、とても背徳的です」
雪が若干積もっていた。2人の足跡が残り、また上に雪が降り、2人の消息はまるで分からなくなった。大いなる地球が、彼女たちの余暇を見送った。
「琴春、朝ですよ。起きてください。琴春」
「…んぬぅ…おはよ、秋乃ちゃん。うわ、寒い」
裸の琴春は寒さから逃れるように、同じく裸の秋乃にひっついた。秋乃の方がやや体温が低いが、琴春から伝わって、彼女の肌は次第に熱を溜めていく。
「一面銀世界です。18年ぶりの大雪だそうですよ」
「寒いわけだねぇ」
「この寒さのせいか、懐かしい夢を見ましたよ。あなたに初めて会った日の夢です」
「あー、あの日も寒かったねぇ。ふふふ、もう6年になるんだねぇ」
「あの夜のあなたも、今のあなたも、相当可愛いですね」
「毎回言ってるしぃ」
琴春のぐしゃぐしゃに乱れた髪を撫でる。地毛らしい茶髪は、秋乃が丹念に手入れをした甲斐あってとても美しい。秋乃の手に甘えるように、彼女は擦り寄った。
秋乃の胸が額に触れた。通常よりかは大きく柔らかいそれは質の良い高反発のクッションのようで、秋乃の匂いが濃い。
「秋乃ちゃんおっぱいおっきいね、本当。初め見た時から思ってた」
琴春は何も悪気なく胸を揉んだ。秋乃は苦笑いを浮かべて、こら、と彼女のつむじを押した。
「アタシよりおっきーじゃんかぁ、ねぇ、次アタシが秋乃ちゃん気持ちよくしたい」
つむじを押されても何のその。琴春はのしかかってきて秋乃の肩を揺らした。冷える空気に体が一瞬だけ震えた。
「ダメです。絶対に譲りません」
黒い艶やかな髪は肌を撫でる。ベッドのすぐそばに置いてあるテーブルに手を伸ばした。どうやら琴春が起きる前に吸っていた煙草らしく、紫煙が上るそれを秋乃は咥えて、深く吸って吐き出した。
「年下のくせに」
琴春が同じくテーブルに手を伸ばし、煙草の箱を無造作に掴んだ。箱の形が歪む。しかしそんなことは気にせず、琴春は煙草を1本抜き取って口に咥えた。残りの本数は確認しなかった。
そのままゆっくりと秋乃に顔を近づける。扇情するように、見せつけるように、琴春は秋乃の膝の上に乗った。
秋乃はやや筋肉質なのに対し、琴春は肉質が柔らかく、食用にするなら美味しそうだと、そう言わざるを得ない。何度も抱いたその体の抱き心地の良さは秋乃自身がよく知っていた。指が沈む皮が、熱を孕む腹が、鼓動が、秋乃を魅了した。惜しむらくはそれらは既に何人かの男が唾をつけた後という。
咥えた煙草の頭を、秋乃の煙草にくっつける。琴春の目は秋乃を見ておらず、煙草にだけ向けられていた。秋乃は彼女の体を見ているのに、彼女は秋乃を一度も見ないまま何度か呼吸を繰り返して、琴春の煙草も煙を吐き出す。ゆっくり、これまた緩慢に微笑んで、味わうように煙を吐き出した。
「んふふ、まっずい」
「そうですか」
「あっ、ちょっと、ねぇどこいくのよぅ」
琴春を押し退けて立ち上がる。秋乃は下着を身につけて、着々と衣類を重ねていく。
「仕事ですよ、当然」
煙草を左手に持って、右手で琴春の頬を撫で、そっとキスをした。
「良い子に待ってるんですよ」
「…はぁーい」
彼女に煽られたまま、流れるようにセックスするとどうにかして泣かせてやりたくて、ごめんなさい助けてくださいと命乞いするまで止められなくなる。天性の魅力を持った彼女を独占できて、養えて、ようやく秋乃は自分の存在価値を認められた。
衣服を着付け終わると、秋乃は玄関のへ向かうためドアノブに手をかけた。
「あ、そうそう」
振り返ると、不満そうな顔をした琴春がいた。それもまた愛おしく笑みが溢れる。
「そこに荷物があるでしょう」
「ん」
秋乃が指差した先には確かに荷物と呼べる大型のスーツケースがあった。
「昨日渡すのを忘れていました。お土産です。好きにしてください。では行ってきます」
「いってらっしゃーい」
琴春はベッドから飛ぶように降りた。着地した瞬間に地面の冷たさに体が固まる。
いそいそと暖房をつけ、スーツケースを床に倒す。随分と重い、40キロくらいだろうか。不思議に思いつつも、あの秋乃がくれたのだと思うと心が躍った。外で流れるクリスマスソングが窓を貫通して聞こえてくると、その感情に拍車が掛かる。
ジッパーに手をかけた。ジジジと、隙間ができる。全て開き切ったあと、スーツケースをぱかりと開けば、琴春は頬が赤くなった。目を細めて、うっとりとそのプレゼントを観察した。
目の前で蠢く肉塊は手足がなく、怯えた目をしていた。声が出せないよう喉に何か詰められているらしい。あの秋乃がどんな気持ちでこれを解体したのか、それよりも自分のことだけを考えてくれる彼女に、琴春は骨抜きにされて、不定形の有機物になりそうだ。そのまま海に流れてしまったらどうしよう。
腕に繋がれた管はブドウ糖液を点滴されており、スーツケース内部は断熱と防音仕様になっている。準備のいいことだ。
「ありがとう、秋乃ちゃん」
手始めに手に持っている煙草でその男の眼球を焼いた。