挨拶にくる
今日、これからのことを考えると朝からずっと落ち着かない。
娘の麻耶が紹介したい男性がいるから来週のお父さんの休みの日に連れてきたいと言ったのは、ちょうど一週間前のことだった。
その男性は間違いなく、私に向かって『麻耶さんを僕にください』と言うためにやってくるのだ。
そう思いながら過ごした一週間は、落ち着かなかった。
麻耶が生まれてからずっと、いつかはこの日が来ると覚悟をしてきたつもりだったが、まだまだ覚悟は出来ていなかったようだ。
摩耶はまだまだ子供だと思っていたのに、知らぬ間に大人になったものだ。麻耶が一目惚れした男性らしいが、麻耶をとられてしまったようで寂しい。
摩耶が小学生の頃、結婚するならお父さんみたいな人がいいとよく言ってくれていたのが嬉しかった。連れてくる男性は、私みたいな男性なのだろうか。
摩耶に結婚したいと思う相手が現れたことは喜ぶべきなのかもしれないが、父親としては、やはり複雑な心境だ。
その男性が本当に麻耶を幸せにできるのか、しっかり見極めなければならない。
音楽関係の仕事をやっていると妻の優花から聞いたが、それで食べていけるのだろうか。そんな不安定な仕事で麻耶を幸せにできるのだろうか。
その男性は、収入もないまま好きな音楽だけをやって、麻耶が寝る間も惜しんで働き、その男性を食べさせることになるのではないだろうか。子供をつくる余裕もなく、自分たちは孫の顔も見ることができないのではないだろうか。
今日これから会って、変な男だったら反対するべきなのか、それとも麻耶を信じて応援してやるべきなのか、すごく難しい。
麻耶を幸せにしてくれそうな、いい男性であることを願う。が、そうなるとやっぱり、それも寂しい。今は反対したい気持ちが、だいぶ勝っている。
「あなた、大丈夫?」
優花が部屋を歩き回る俺に声をかけた。
「いや、ダメだ。どっちに転んでも苦しい。麻耶を幸せにしてくれそうな男であってほしい。そう思うけど、麻耶を取られたくない」
俺は髪の毛がグシャグシャになるまで頭を掻いた。
「おとうさんを思い出すなぁ」
優花が宙を見て呟いた。
「えっ、おとうさん?」
俺は優花の宙を見る横顔に視線を向けた。
「そう。わたしのお父さん」
優花が笑みを浮かべて俺の方を見た。
「ああ、優花のお義父さんか。お義父さんがどうした?」
「あなたが挨拶に来る日の朝は、お父さんは今のあなたみたいにずっと落ち着かない様子だったわ」
「そうなんだ。意外だな」
俺が優花の両親に初めて挨拶に行った時、優花のお父さんは平然としているように見えた。
「お母さんの話だと、わたしがあなたを迎えに出てる間ずっと怖い顔してソファに座って電源の入ってない真っ黒なテレビの画面をじっと見つめていたらしいわ」
優花は当時の様子を思い出し笑った。
「お義父さんの怖い顔が想像つかないな。あの時、俺が玄関で挨拶すると、優しく微笑んでくれてたよ」
優花と結婚がしたいと彼女の両親に挨拶に行った日のことを思い出した。
優花が駅まで迎えにきてくれた。優花の顔を見た途端に心臓が暴れだして全身のコントロールがきかなくなった。駅から優花の自宅までを歩くだけなのに、右足と左足がぎこちなく何度もつまづきそうになった。
優花が心配そうな表情で、顔を覗きこんできたので余計に緊張した。
優花の家に着いて、先に優花が家に上がり、お義父さんとお義母さんを呼びにいった。
家に入っていく優花の背中を見ながら、玄関で手を前に組んで背筋を伸ばした。口のなかはカラカラに渇いた。呼吸困難になり何度も深呼吸した。玄関で待っている時間がすごく長く感じた。足がガクガクと震えて止まらなくなった。
優花が玄関まで戻ってきて、優花の肩越しにお義父さんの顔が見えた。
その時のお義父さんの顔は優しく微笑んでいた。
優花が俺を両親に紹介してくれた後も優しく声をかけてくれた。
「よく来てくれたね」
その優しい声と笑みのおかけで、俺の緊張はスーッと霧が晴れるように解けていったのを覚えている。
俺は複雑な心境だが、これから挨拶にくる男性は、あの時の自分と同じで、緊張して全身のコントロールがきかなくなっているかもしれない。
足がガクガク震えているかもしれない。うまく挨拶しようと頭を悩ましているかもしれない。
俺は、お義父さんが自分にしてくれたように優しく微笑んで、相手の緊張をほぐしてやろう。反対するか賛成するかは、その後に決めればいいと決めた。




