閃光
俺が北野秀太として人間界に生まれて三十年が過ぎようとしていた。この三十年間、本当に幸せだった。父の俊介、母のみどりからたくさんの愛情を受けて育てられ、園山優花という女性と出会って、一目惚れし告白した。
優花と付き合い、二十八歳の時に結婚した。そして、優花のお腹に新たな命ができた。
俺は心の底から人間になって良かったと思った。
俺は自分が人間として生まれた日に父の俊介が異常なほどに喜んで幸福度が上がるのを不思議に思っていたのだが、今はその気持ちがすごくわかる。
産婦人科から帰ってきた優花の口から妊娠したと聞いた時、自分に子供ができるということが、こんなに幸せに感じることなのかとしみじみと思った。
神様でいる頃は、人間を幸せにすることは難しいことのように思っていたが、そうではない気がした。
人間界がこんなに幸せにあふれた世界だとは知らなかった。子供の頃は両親から愛され、育ててもらい幸せをもらった。
小学生の頃はサッカーや野球が楽しくて友達と遊んでる時も友達から幸せをもらった。
母のみどりが病で倒れた時は心配したが、完治して吉岡先生に感謝した。
勉強は好きではなかったが、医者になると決めてから勉強も頑張り受験に成功して幸せだと思った。
医者になって沢田という良き先輩と出会いいろんなことを教わった。
恋愛はほろ苦い経験もしたが、今思えばいい経験だった。優花に出会い恋をした。優花からも幸せをたくさんもらった。
これまでの俺は、人間として生まれて幸せなことであふれていた。
これから先も人間として生きて、父俊介と母みどりにこれまで育ててもらった恩返しをし、優花と生まれてくる子供には、俊介やみどりが自分に向けた愛情に負けないくらいの愛情を注ぎ、孫やひ孫が出来ても、彼ら彼女らに愛情を注ぐつもりでいた。
神様に戻るのは、急ぐ必要はない。人間の寿命を全うしてからでいい、この人間界での経験は神様に戻ってからもきっと役にたつものだからと思った。
ところで自分の人間としての寿命は何歳までなのだろうか?
いつまで人間として過ごすことができるのだろうか。ふと、そんなことを疑問に思った。
「あなたを、ここから先に入れるわけにはいきません」
病院の前で警備員に止められた。
「なぜですか? 私は、今日赤ん坊を出産した北野優花の夫なんです。生まれてきた赤ん坊の父親でなんすよ。だから、妻と子どもに早く会わせてください」
「あなたは、普通の人間ではありませんね。危険人物は病院に入れるわけにいきません」
子供が生まれたと連絡が入り、病院まで会いに来たのだが、病院の中に入れてもらえない。何度訴えても、あなたは危険な人物なので患者を守るために病院に入れるわけにはいかないと言われる。
「中に入れろ、子供に会わせてくれー」
叫んだ自分の寝言で目を覚ました。
「あなた、大丈夫? すごく汗かいてるけど」
優花が心配そうに俺の顔を覗きこんだ。
「ああ、ごめん、大丈夫だ。変な夢見たもんだから」
不吉な夢だった。俺は自分の子供の顔を見ることができないんじゃないかと、ふと思った。
ベッドから体を起こして頭を振った。少し頭痛がする。最近体調があまりよくない。
医者の不養生だと苦い笑いを浮かべた。ため息を吐いてからベッドから出て、大きく伸びをして、もう一度頭を左右に振った。
やはり少し頭が痛かった。疲れているだけだ。明日は休みだ。今日一日頑張れば、明日はゆっくり体を休めることができる。そしたら元気になれる、そう信じていた。
食欲はなかったが、無理にトーストを口に押し込みコーヒーで流しこんだ。朝食を終えてから、ストレッチをして仕事に出掛ける準備をした。
そうしてるうちに仕事モードに切り替わった。頭痛も気にならなくなった。
ネクタイを絞め上着に袖を通す。よし、これで今日一日乗り切れる。疲れていても、朝の準備の時に気持ちを切り替えるようにしている。神様の時から心がけていることだ。
「じゃあ、いってくるな」
リビングで座る優花に声を掛けた。
「気をつけてね」
優花が立ち上がり玄関へ向かう俺の背中を追いかけてきた。
「わかった」
俺は玄関で振り返り、優花に笑みを向けた。
「今日は実家に寄ってから帰ってくるんでしょ」
「一応、そのつもりだけど」
靴べらを手にして返事をした。
毎年、自分の誕生日には両親に感謝の気持ちを伝え、プレゼントを渡すことにしている。
子供の頃、両親が俺の誕生日を毎年祝ってくれた。
家族三人、ケーキを前にしハッピーバースディと歌い、幼かった俺がローソクを消すと、両親はいつも俺に向かって、「生まれてきてくれてありがとう」と言ってくれた。
その度に、俺の小さい胸は熱くなった。
大学生になってからは、自分の誕生日に、生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう、という気持ちを伝え、両親にプレゼントを渡すようにしている。今日も両親にプレゼントを持っていくつもりだ。
「あなたが実家から帰ってきたら、あなたの誕生日のお祝いを二人でやりましょうよ。夕食は何がいい?」
「何でもいいよ。それより」
そう言ってから優花のお腹に手を当てた。
「もうすぐ予定日だろ。ゆっくりしてろ。俺の誕生日のお祝いなんかより、この子が生まれてから、俺は君とこの子にお祝いをしてあげたい」
優花のお腹に手を当てて体温を感じながら、そう続けた。
「わかった。けど、わたしもあなたの誕生日くらいは感謝を込めてお祝いさせてほしいの。だから今日の夕食のメニューはあなたの好きなものするわ。それとケーキも買ってくるから」
「楽しみにしとく。じゃあ、行ってくる」
お腹に手を当てたまま優花に軽くキスをしてドアを開けた。ドアから出て閉める前に、なぜかいつもと違うことに気づいた。なぜだろう名残惜しくなり優花の顔をもう一度見た。
「いってくる」
もう一度言って口角を上げた。
「いってらっしゃい」
優花も手を振りながら笑みを返してくれた。
なぜかまた、優花の顔を見た。無意識にじっと優花の目を見つめていた。
なぜだろう? なにか嫌な予感がする。いつもと違い、優花から離れたくなかった。今日はこのまま優花といっしょにいたい。仕事へ行きたくない。こんな気持ちになるのは初めてだった。やはり、体調が悪いからだろうか。
「どうしたの」
優花も俺の異変に気づいたようだった。
「いや、なんでもない。やっぱり疲れてるみたいだ」
「大丈夫? 顔色よくないよ」
「大丈夫だ。実家から帰る前に連絡する」
俺はドアを閉めて、フゥーと長い息を吐いた。
「じゃあ、お先です。あとお願いします」
夜勤のスタッフに挨拶をし、帰路についた。自宅を出る時は体調が良くなかったが、出勤した頃には元気になっていた。
今日で人間としてこの世に生まれて丸三十年になる。
帰宅してから優花が誕生日を祝ってくれると言っていた。
人間になった当初は誕生日を迎えることが、そんな特別なことだと思っていなかったが、これまで毎年家族や友人たちに誕生日を祝ってもらっているうちに誕生日が特別で幸せなものだと感じるようになった。
大学生になってからは誕生日に自分を祝ってもらうより、生んでくれたこと、これまで育ててもらったことを両親に感謝するべきではないかと考え、その頃から両親にプレゼントを渡すようになった。
今日も今から自宅に帰る前に実家によって両親にプレゼントを渡すつもりにしていた。
プレゼントを渡して、両親が喜んでくれることに幸せを感じた。なので、プレゼントをもらうより、あげる方が俺は好きだった。
しかし、毎年、プレゼントを渡していると、だんだんと渡すものが無くなってくる。これまでに、衣類や靴、バッグ、腕時計と身につけるものを渡してきたが、今年は悩んだあげく旅行をプレゼントすることにした。
行き先は二人から希望を聞いて鹿児島県屋久島にした。今回は夫婦水入らずの旅行にしたが、いずれは自分と優花、そしてもうすぐ生まれてくる子どもと五人で旅行をしてみたいと思った。
両親が縄文杉を見上げている姿を思い浮かべながら駐車場へと向かった。
帰りが予定より遅くなったので、急いで車に乗り込んだ。取りあえず母のみどりに連絡を入れた。
「もしもし」
すぐに電話は繋がった。
「もしもし、誕生日おめでとう」
すぐに母親の声がした。
「ありがとう。今から、そっちに顔出すから」
「わかった。じゃあ、後でね」
電話を切ってスマホを上着の内ポケットに放りこみ、車のエンジンをかけた。
実家は自宅へ帰る途中にあるので、顔を出して帰っても一時間もあれば自宅へ帰れる。少し疲れはあるが父親の俊介と母親のみどり、妻の優花の顔を思い浮かべ、そしてまだ見たことのない、もうすぐ生まれてくる自分の子供の顔を想像したら疲れは一気に吹き飛んでいった。
よし大丈夫だ。俺はアクセルを踏んだ。
めずらしく車を飛ばしていた。道がすいている上に、今日は信号にもつかまらない。タイミングよく信号が青に変わってくれる。このペースだと予定より早く実家に着きそうだ。
よし、優花も待ってるし急ごう。俺はアクセルを踏みこんんだ。
R交差点が見えてきた。この交差点で赤信号につかまると長いのだが、ここも今は青信号だ。一気に渡ってしまおうと、もう少しアクセルを踏み込んだ。
交差点の手前に来て信号に視線をやった。まだ青信号のままだ。このまま渡れる。そう思った瞬間に、目の前に閃光が走りアクセルを緩めブレーキに足をかけた。
その時だった。耳に突き刺すような高くて嫌な音が聞こえてきた。
『キキキキキーッ』
激しい急ブレーキの音だ。音のする方を見ると右側からトラックが赤信号を無視して突っ込んできていた。
トラックは交差点に入ったところで、タイヤから白煙を上げて急停車した。反対車線の車はなんとかブレーキが間に合ったようで事故にならずにすんだようだ。
俺もR交差点に入ったところでタイヤを鳴らしながら車を急停車させた。
あちらこちらからクラクションが鳴り響いていた。
「フゥ、やばかったなー」
一歩間違ったら、大事故だったなと思い、シートに体をあずけた。
さっき目の前に閃光が走りブレーキを踏まなかったらと思うとゾッとした。あの閃光はなんだったんだろう。
前の信号が赤に変わってしまったので、少しバックしてから、交差点に赤信号で突っ込んできたトラックの方を見た。トラックの運転席の窓に顔を突っ込んでいる男性の姿が見えた。反対車線でぶつかりそうになった車の運転手が怒っているようだ。
確かにトラック側の信号は完全に赤だったので信号無視して突っ込んできているから腹が立つ気持ちはわかる。下手すれば死んでいたかもしれないのだから。
トラックの運転手は運転席でペコペコと頭を下げていた。そのせいでトラックの後ろは渋滞をしていた。
とりあえず、みんな無事でよかったとトラックから視線を外した時に、トラックの横に見覚えのある顔があった。
気になってもう一度そっちに視線を向けた。
「やっぱりそうだ。あんなところで何してるんだろう」
そこには、俺が野々神社の神様だった頃いっしょだった南の神が立っていた。




