若かりし日
「ハァー、困ったな。頭が痛いよ」
野々神は協会長室から帰ってきて、ずっと一人ため息を吐いてブツブツと言っていた。
朝から協会長に呼ばれて出て行っていたが、また怒られて帰ってきたのだろう。
「野々神、元気がないですな。もしかして、習の神がテストをボイコットした件で、また協会長に怒られましたか?」
わしが言うと、野々神はわしを睨んだ。
「ちがいます。けど、習の神のボイコットの件は、南の神、あなたの責任ですからね。なぜ、テスト当日に、参拝にきた少年を追いかけさせたりしたんですか。あー、思い出したー、クソー」
野々神は、頭を抱えて天を仰いでいた。
「まあまあ、よろしいじゃないですか。終わったことですし」
わしはニヤリと笑った。
「なに笑ってるんですか。全然反省してませんよね」
「すいませんね。でも、今日の呼び出しは習の神のテストをボイコットした件じゃなかったんですか」
「習の神の件は、協会長のなかでは、すでに終わってます。かわいそうに、あいつは協会を追放されて、今頃は浮浪の神になってますよ。今ごろ路頭に迷ってるんじゃないですかね。南の神、ちょっとは責任感じて下さいよ」
「わかりました。わしのせいで、習の神は協会を追放されて、路頭に迷って苦しんでることを、しっかりと肝に銘じておきます」
「本当に思ってんですかね」
「じゃあ、今日の呼び出しは、北の神の方ですかね」
「そうです」
少し前に協会長が北の神を神様に戻すつもりだと野々神に話していたらしいから、その件だろう。
北の神が野々神社に戻ってくることは、野々神にとってはありがたいはずだが、今の様子を見る限り、今日の呼び出しはいい話ではなかったようだ。
協会長は自分の利益になることしか考えてないので、呼び出しと聞いた時、野々神にとって、あまりいい知らせではないだろうとは思っていた。
「北の神が戻ってくる話はどうなったんですか」
「協会長は、その予定ですすめているみたいです。今日はその話でした」
「やっぱりそうですか。そのわりには表情が冴えないですな。野々神は北の神に戻ってきてほしくないんですか?」
「そりゃあ、戻ってきてほしいですよ。一日でも早く北の神と一緒に仕事がしたいです」
「それなら、もっと元気出してくださいな」
「でも、いろいろあるんです」
「いろいろ?」
協会長のことだ。北の神や野々神のことを思って、北の神を野々神社に戻すつもりではないのだろう。
野々神にとって、なにか嫌な条件でもついているのだろう。今の野々神の態度を見るかぎり、きっとそうだ。
「実は、北の神は人間界ですごく幸せに暮らしてるみたいなんです。だから、野々神社に戻るのは百八歳の寿命を全うしてからにしてほしいと言ってきたんです」
「ほぉー、北の神は人間界で幸せなんですか。さすが北の神ですな。人間界でもうまくやっているんですな」
「そうなんですよねー。私には理解出来ないですけど、北の神は人間界が気に入ってるみたいなんですよ」
「北の神にとって、人間界はいいところなんでしょうな」
「よくわかんないですけど、北の神の話を聞いていると、百八歳の寿命を全うさせてやりたいなと思うんですよね」
「それでしたら、野々神はしばらく大変でしょうけど、そうしてあげればいいじゃないですか」
「私がそう思ったところで、協会長がね。わかるでしょ」
「協会長、ですか?」
「そう。協会長。北の神は戻りたくないと言ってるのに、強制的にすぐに野々神社に戻すつもりなんです」
「厄介ですな」
「ほんと、厄介。協会長は、北の神が人間界で三十歳になった日に神様に戻すつもりなんです」
「三十歳、そりゃあ、急ですな」
「そうですよ。それでですね、協会長は、恐ろしいことに、この件を死神に依頼してるんです。死神が北の神の人間としての寿命を三十歳で切ってしまう計画を立ててるらしいんです」
「そりゃー、無茶苦茶ですな」
「そうでしょ。でも、協会長が言い出したら、私がどうこうできるわけないですしね」
「困りましたな」
「北の神の人間界での三十歳の誕生日に交通事故で死亡する計画を、協会長と死神で、すでにすすめているんです。私、その計画を聞いて恐くなって、これでいいのかって悩んでるんですよ。でも、私がどうすることも出来ないし、今、この件を自分だけで抱えてるのが苦しくてね」
「うーん、なるほどね。考えてみりゃ、人間になった北の神が幸せに暮らしてるなら、三十歳で死亡するのは確かに辛いかもしれませんな。人間の三十歳って年齢は、一般的には仕事も充実してきて、これからって頃でしょうし、一家の主として家庭を持つ頃ですからね。これまで、経験したこと、学んできたことを成果として形になってあらわれてくる年齢ですし責任が重くなってくる頃ですからね」
「へぇー、人間の三十歳ってそんな大事な時期なんですか」
「野々神は人間のことを知らなすぎます。もっと人間のことを学ばないとダメですな。協会長の方ばかり見て仕事しないで、人間を幸せにするためにはどうすればいいか、もっと人間のことを知らないといけません」
「部下のくせに、えらそうに。南の神こそ、もう少し協会のことを考えて下さい。あなたのせいで、私が協会長に目をつけられて大変なんですからね」
「協会のことには興味ないですな。それより、北の神は人間界で結婚はしてるんですかね」
「協会のことに興味がないって、もうこれ以上問題起こさないで下さいよ。お願いしますよ」
「わかってます、わかってます、問題は起こさないようにしますよ。それより北の神は結婚してるのか教えてくださいな」
「結婚して、もうすぐ子供ができるみたいです。でも、子供の顔を見る前に死ぬことになるでしょうね」
「子供の顔を見る前に死ぬことになる、そんなこと平気で言えますな」
「平気で言ってるわけじゃないですよ。私も困ってますよ。けど、その方向で進んでしまってるから、私にはどうすることも出来ません」
「どうすることも出来ないなんて、それは北の神がかわいそうすぎますよ。ここは野々神の力で何とかしてやらないといけません」
「私の力じゃ、本当にどうすることも出来ないですよ。かわいそうだけど、やむを得ないです。野々神社に戻ってきてから、元気づけてやるしかないです。南の神も北の神が戻ってきたら、元気づけてやってください」
「うーん、このままだとヤバイですな、何とかしてやりたいですな」
わしは協会長の自分勝手なやり方に怒りを覚えた。死神に依頼してまで北の神の寿命を切るなんて異常すぎる。狂ったとしか言いようがない。
あの日からあいつはおかしくなった。地位と名誉に目が眩んだ。わしは協会長といっしょに過ごした若かりし日のことを思い出した。
当時、今の協会長とは、勝野神社というところに所属し同期で良きライバルだった。勝野神社は規模が大きく神様が九柱もいた。
その中のリーダーだったのがわしと協会長だった。協会長は、その当時は東の神として活躍し、わしは当時も南の神だった。
お互いにお互いを意識しながら切磋琢磨し、人間界の幸福度を上げるためにそれぞれ努力していた。
しかし、当時のわしと東の神との考え方には大きな違いがあった。
東の神は神様協会の繁栄こそが人間界の幸福度を上げる為に不可欠なことだと考えていたのに対し、わしは神様協会の繁栄を優先するべきではなく、まず人間界の幸福度を上げることを優先し、人間界の幸福度が上がれば、自然と神様協会も繁栄するという考えだった。
当時、まだ血の気の多かったわしと東の神は、そのことでよく意見をぶつけ合い、殴りあい寸前になることもあった。
考えの違うわしと東の神は、今では、片や、協会のトップとなり、協会をまとめる立場にまでのぼりつめ、片や、落ちこぼれというレッテルを貼られてしまい、神様協会のお荷物となってしまっている。
この差はいつの間についたのだろうか。そこには、わしと協会長の運命を大きく分けるある出来事があった。
当時の協会長が常に成績優秀だった勝野神社に視察訪問に訪れた時のことだった。
勝野神社の神様全員が、恭しく当時の協会長を迎え、視察後には宴を開催する予定になっていた。
協会長の視察が無事終わり、宴の準備に忙しくする神様たちの中には、わしと現在の協会長の東の神もいた。
東の神は料理の準備を任され、わしは飲み物の準備を任されていた。
わしが宴の会場まで重たい酒樽を運び終えてから、一旦、神社に戻ってきた時のことだった。
本殿で休憩していると、一人の少年が神社の境内にポツンと立っていた。
十代前半くらいの少年だった。少年の着物の腕のところが破れていて、着物全体に汚れが目立った。
陽は傾き、少年の影は長く伸びていた。ただでさえ、この年頃の人間が神社に一人で現れるのはめずらしいことなのに、こんな遅い時間にどうしたんだろうと、わしは少し心配になった。
そのまま放っておけなくなり、暫く少年の様子を見ることにした。
「おい、なにサボってんだよ」
背中から声がして、振り返ると東の神が米俵を肩にかついで立っていた。
「あの少年の様子がおかしいんだ。こんな遅い時間に神社に来るなんて変だと思わないか? もうすぐ陽が沈むのに」
顎で少年の方をさした。
ハァーとため息を吐いた東の神は、天を仰いでから少年に視線を向けた。
「肝試しでも、やってんじゃないのか。大きな物音でもたてて脅かせて、さっさと追い払えよ」
「一人で肝試しか? そりゃないよ。それにあの顔は、そんな楽しんでる表情じゃない。思いつめた表情だ。着物だって汚れているし。絶対やばいから何とかした方がいいんじゃないか」
「バカなこと言うな。早く宴の準備しないと間に合わなくなるぞ。協会長を待たせたらヤバいぞ。せっかく勝野神社は協会長に目をかけてもらってるのに、あんな少年の相手をしてぶち壊すわけにいかねえよ。俺は先に行くぞ」
「わかった、東の神は先に行っててくれ。俺はもう少しあの少年の様子を見てから行くわ」
「ハァー、相変わらず、お前はバカだな。協会長や勝野神に怒られても知らねぇぞ」
「勝野神には、不審な少年が現れて目が離せなくなったと伝えておいてくれよ」
「わかった、わかった。じゃあな、先に行くな」
東の神は米俵をかついだまま宴の会場へと向かって行った。
わしは、東の神が行ってからずっと少年の様子を窺っていた。
少年は勝野神社に茂る一本の高い樹のてっぺんを首が痛くなるんじゃないかと思うくらいずっと見上げていた。
そこから少しずつ首の角度が下がり視線を下げていった。左右の枝を見て首を横に動かし、目の前の太い幹を見て、そして足元に視線を落とした。
陽は完全に落ちて、その樹は色を失いまっ黒な不気味な怪物のように見えた。茂る葉の隙間からかろうじて月の光が射し込んでいた。
少年は、その樹から離れ、隣の樹の方に足を向けた。隣の樹もまた同じように見上げてから視線を下ろしていった。そして、また隣の樹に移り、同じことを繰り返した。
わしは少年が何をしているのかと不思議に思い少年に近づき後ろに立った。
わしが後ろに立った途端に、少年は踵を返しわしの方に体を向けた。
少年の顔を正面で見た。少年の顔は青白く、そのうえ目の辺りに痣があった。
わしは生唾を呑みこんだ。やっぱり、この少年を放っておいてはダメだと思った。
少年はわしの体をすり抜け、ふらふらとした足取りで歩きはじめた。わしはそのまま少年の後ろを追いかけた。
少年は手水舎の前に立ち、柄杓を右手にとってゆっくりと水を掬った。
まず左手に水をかけてから、柄杓を持ちかえ右手にも水をかけた。また柄杓を持ちかえてから水を掬い、今度は頭を下げて、頭の上で柄杓をひっくり返した。頭に水をかけることを三度繰り返し、頭はびしょびしょになり、着物まで濡れた。
少年はそのまま濡れた地面に座り込んだ。体育座りをして両膝の間に顔を埋めていた。
わしが覗きこんで見ると、髪の毛から落ちる水といっしょに目から涙がポタポタと落ちていた。
わしは少年から離れられなくなった。今日は宴には行かず、この少年についていることに決めた。
少年は立ち上がり腕で涙を拭いてから顔を両手でパンパンと叩いて歩きだした。
しっかりと前を向いて鳥居をくぐり勝野神社から出て行った。
最初見たときより足取りはしっかりしている。少し立ち直ったのかと思ったが油断はできなかった。
わしは少年の後をぴったりとついて歩いた。
少年は月の灯りで白く光る畦道を歩き、そこから草木が生い茂る山道へと進んで行った。
最初は周りをキョロキョロと見ながら歩いていたが、急に視線を左に向いて、そこで立ち止まった。
なにかを見つけたのか、左側をじっと見つめていた。少年は肩で息をし、生唾を呑み込んだ。
少年の視線の先には勝野神社で見ていた時の樹よりも、一回り大きな樹があった。
太い幹からしっかりとした頑丈そうな枝が何本も伸びている。
少年はその樹を見上げながら樹のふもとへと向かって行った。樹のふもとまで来てからその樹を見上げていた。
しばらくして、少年は地面に座り持っていたふろしきを開けた。
ふろしきの中から縄を取り出し、強度を確かめるかのように両手でピンピンと何度も引っ張っていた。
それが終えると縄を首にグルグルと巻いてから立ち上がり、また樹を見上げた。樹の幹の出っぱったところに足をかけ飛び上がり太い枝に右手をかけたが、手が滑って、そのまま地面に落ち、しりもちをついた。
しりもちをついた体勢のまま、つかみ損ねた枝の辺りを見ていた。
わしは少年の見ている枝の上にのぼり、そこから少年を眺めた。少年の息づかいが聞こえてきた。
少年は立ち上がり、今度は助走をつけて枝へ飛びついた。さっきよりしっかりと枝に右手がかかった。右手一本で自分の体を持ち上げた。左手も枝にかかった。右足を枝に巻きつけてしがみついた。
少しずつ体を起こして、やっと枝にまたがって、枝の上に座ることができた。
枝の上に座った少年は首に巻いていた縄の両端を枝に縛りつけた。
「こりゃ、やばいな」
わしは少年が首をつるつもりではないかと思った。
少年は枝に縄を縛りつけてから、自分の首に巻いてある縄を両手で引っ張りギュッと絞めた。そして目を閉じて手を合わせた。
「父上、母上、お許しください」
そう呟いて、少年は全身の力を抜いた。少年の体は枝から離れて落ちていった。その瞬間、わしは慌てて神の力を使い、樹の枝を折った。
バキッという枝の折れる音に続いて少年が地面に落ちるバサッという音がした。
少年は枝に吊るされる寸前で折れた枝といっしょに地面に叩きつけられた。痛かったろうが死なずにはすんだ。
わしは枝の上から「フゥ」と息を吐いた。体中の力が抜けた。
落ちた少年を見るとうつぶせになって倒れたまま動かなかった。
わしは枝から下りて少年の横に胡座をかき、少年の顔を覗きこんだ。
少年の目から涙がポタポタと落ちて地面を濡らしていた。しばらくこのまま泣かせておくことにした。
わしは、少年の耳元で彼が赤ん坊の頃に彼の母親が歌ってくれていた子守唄を歌った。
少年の顔が少しずつ柔らかい表情に変わっていくのがわかった。




