下流層からはじまる 02
「何か、わかったのか?」
傷の男は無表情に言った。
大男を見据えながら、埃のつもった椅子にゆっくりと腰かける。
「少しな」
大男が短く返し、いきおいよく椅子に座った。すると埃が大きく舞い、周囲に広がっていった。窓から差しこむ光が埃を照らし、辺り一面を真っ白にしていく。
傷の男は口元を手でおおうと、「何をするのだ」と言わんばかりに大男をにらみつけた。
愉快そうにしている大男の目が、下の階をうかがっている。少しの間を置いて傷の男に視線を戻すと、懐から小さく折りたたまれた紙を取り出した。傷の男にそっと差し出し、片眉を上げてくる。
「すまない、ミッド。ありがとう」
傷の男は紙を受け取ると、折りたたまれた紙をひらいて中を確認した。
そこには一行の文字がならんでいた。
≪ 黒い騎士 三人 ≫
書かれた短い言葉をじっと見つめ、傷の男は顔をゆがませた。紙を持つ指に、少しずつ力が入っていく。その様子を見ていた、ミッドと呼ばれた大男から笑顔が消えた。
「ラトス。俺から言えることはあまり無い」
ミッドが肩を落とし、大きな身体を小さくまるめる。
「ここからは、お前次第だ」
「……ああ。わかっている」
ラトスと呼ばれた傷の男は、受け取った紙を懐に入れた。顔をゆがませたまま、ゆっくりと椅子にもたれかかる。ギイときしむ音が数度鳴り、二人の間の沈黙をきわだたせた。
沈黙がつづく中、ラトスは目だけで辺りを見わたす。ミッドとはよく会っていたが、ここへ来るのはひさしぶりのことであった。ずいぶんと長い期間、仕事もしていない。しかし今は、色気のない吹きだまりのようなこの場所が、妙に心を落ち着かせた。
「まだ、色は見えないのか?」
ミッドが心配そうな表情を浮かべ、ラトスの目線まで上体を低くした。
「色が見えないわけじゃない。薄いだけだ」
「ああ。そう、だったか」
「そうだな。色は、まだ褪せたままだ」
ラトスは目を細め、テーブルに視線を落とした。
褪せた茶色のテーブルの上で、白と灰色の塵が吐息に揺れている。光すらも褪せていて、どこか薄暗い。
半年前から、ラトスは色があまり見えなくなっていた。
医師には見せていないが、病気ではない。原因となるものがなにか、自分でよく分かっているからだ。とはいえラトスは、この色弱を治そうと思っていなかった。治す手段があるとしても、それを求めようという気にすらなれない。
「あれから、ずいぶん経ったな」
「そうだな。たぶん、経ったのだろうな」
「経ったとも。本当に……」
そこまで言ったミッドの口が、ぐっと閉じた。ううんと唸りながら、太い腕を組みなおす。ラトスはミッドの様子を見て、わずかに口の端を結んだ。ミッドの呑み込んだ言葉が何であるか、分かっているからだ。
かつてラトスには、一人の妹がいた。
それは半年も前のことで、今はもういない。殺されたからである。
無惨な姿となった妹の身体は、荒らされた家の中にぽつりと落ちていた。
一見強盗の仕業に見えたが、そうではない。ただの強盗だと思わせているような痕跡がいくつもあった。しかしそれらを追求しようとする力など、ラトスには無かった。冷たくなった妹を抱きかかえ、ひたすらに泣き叫び、うめき、吐きつづけることしかできなかった。
幾人かの友人やギルドの仲間が駆けつけたが、彼らもまた立ち尽くすしかなかった。床全体に広がった妹の血の只中で、妹の血を滲みつけたラトスの身体が、赤黒く染まっていたからだ。それはあまりに凄惨な光景で、駆けつけていたミッドもまたなにひとつ言葉をかけることができなかった。
かけがえのない存在を失ってから、半年。
ラトスの目は、世界が色褪せて見えるようになった。
無気力になり、身体から生気が失われていくのを、日々感じた。
ラトスをなんとか生かしつづけたのは、妹の死にかかわる情報を探しつづけてくれたミッドであった。どんなに些細な情報でも、知り得た情報のすべてをラトスへ届けつづけた。妹の無念を晴らすべきと、ラトスの魂が朽ちぬよう支えつづけていたのだった。