第1話「ひねくれ少女、童貞に出会う」
奏音さんがとうとう異世界に降り立つようです。
また光だった。
しかし、先のような直射する暑さはなく、肌を撫でる心地の良い温度だ、きっとこれは太陽光だろう。
それ以外の五感も明瞭だった。
よく知ったコンクリートとは違った、体を包み込まんとする柔らかい土地に、草木の香りやそこから生ずる“揺らぐ”音。
そして耳朶を叩く音……?
(これ、知ってる)
蹄鉄というやつか、馬に履かせたそれが大地を叩く音。
科学技術が栄華を極める時代に、馬?
旧時代的も甚だしいわね。
(……息苦しい)
地面にうつ伏せになっているせいで、居心地は最悪。
というか、今私の体に接しているのは土ではないか。
髪が汚れてしまう、ほんと最悪だ。
体がやけに痛む。そんな体に鞭打って立ち上がると、視界の低さに違和感を覚えた。
「えっ……?」
掌が、小さい?
待て待て、何が起こっているというの?
かなり焦っていた私は何も考えずに数歩歩くも、何かに躓いて派手に前から転倒してしまう。痛い、転んだら痛いのは当然だけど、普段よりも……。
落ち着こう、深呼吸よ。
わかることは、空気は美味しいということ。嗅覚などが感知した情報を統合するに、野外であることはわかる。目の前に巨大な樹木、周囲を見回すとそこは丘陵なのか、かなり激しい傾斜が続いている。そこにも、眼前の巨木には劣るが、かなりの年月を経て根付いた木々が辺りに植生を築いている。
それらの情報から精査するに、今私は生い茂る森林の内部にいることがよくわかった。
場所をなんとなしに把握した次に私がしたかったのは、自分について知ることだった。
パッと見た感じ五体満足だけど、他の、それこそ顔とかはどうなのか?
私が先ず以て探し出したのは“鏡”やそれの代わりとして全身が捉えられるもの、水面などがあれば完璧なのだけど。
ちょうど視線の位置にある木目が何故か赤色に染まっている。
妙な目線との高さの一致に疑問を抱いた私は、額に触れてみる。すると、手に少量の血が付着していた。
(ここで頭を打って、気を失っていたのかしら?)
木々の狭間から陽光は漏れ出すし、意識を呼び戻すきっかけとなった馬蹄か地面を叩く音が確かに尚も聞こえ続ける辺り、森林だけど人が通ることができる道はあるっぽい。多分、そこから転がり落ちたのか?
「あ」
少し先に、水溜りを発見したので其処による光の反射を駆使して、自らの体躯を捉えようと考え、思い立ったら既に行動していた。すると驚愕した。
それは幼女の姿そのものだった。
「どういう、こと? 私は……中学三年生だったはず」
当時の私の髪色は、黒一色。自分で言うのも変な話だが、校則に反する髪型はしていなかった。腰に至る直前で切り揃え、前髪も眉より上で綺麗に整えていた。今の私の髪色もそこから乖離しているわけではないが、今のは黒ではなく白色に近かった。髪の毛も下腹部あたりにまで伸びている。元は黒だった筈の瞳の色も、深紅に変わっているではないか。全体的に見違える変化だ。
しかし、それよりも何よりも、体躯が恐ろしいほどに縮んでいるではないか。
確かに同年代の女子生徒と比べると背は低い方だったが、発育も控えめだったにも認めよう。だけど流石にこれはない。これは発育不足とかそう言う次元の話ではない。幼稚園児と変わらないではないか!
直前まで私は……私は……。
「何をしていたの?」
何故か意識を失う直前の出来事を思い出せない。高いところから落ちたことくらいしか記憶になく、何故にそういうことに至ったかは……てんで見当がつかない。記憶の領域に靄がかかって、その記憶の末端に触れようとすると途端に立ち消えるようだ。が、完全に途絶えたわけではなく、波の振幅のように、記憶の喪失具合も時間によってまちまちである。なんとなく流れは覚えていても、前後関係がわからない、みたいな。
ともかく、まったく手がかりがないわけでもないし、時間経過で解決しそうな話ではある。
だけども、いかに記憶がなくともこんな馬鹿な話があるわけがない、これでは最早若返りではないか!
沸々と理解不能が押し寄せる。
このような感覚は初めてだ。
いや、経験があってたまるか。どういう道理で、時間が逆行して中学三年生が童女に戻る? 夢の狭間でもなければ到底起こりえない。
「誰かを」
探さないと。
こんな体では十分に野外で過ごせる自信がない。
加えてこのこの場の情報を何一つと知らない。地名も、地域も、自国であるのかさえもだ。精神的には自我が十分に備わっているけれど、方や体格面はというと赤子同然。この場が、もしも激戦が展開される中心地で有れば、私は目を覚ましたばかりだというのに必然的に命を落としてしまうだろう。
それだけは御免被りたい。
朧げに浮かぶ意識を失う直前の光景と、現状私の視覚が捉えている光景とで何ら共通項が見出せない。直前まで私は確かにコンクリート塗りで息が詰まる最悪の世界に存在していた筈なのに、今や空気そのものが精神安定の作用が感じられてならない程に清く、大自然の息吹を全身で体感できるではないか。
だけども、ここで戯れに時間だけを浪費するべきではないだろう、幸運にも頭部の怪我こそはあるが身体は問題なく機能する。早急に私以外の人間を発見してだな……。
その時だ、北西方向に延びる雑木林が揺れた。
風は吹いていない、だとすれば野生動物か、或いは来訪者。前者であれば早速万事休すとなってしまうが……?
しかし、野生動物ではないかという警戒は稀有に終わることとなる。が、それは警戒の対象が挿げ替えられるだけで、根本的な身の安寧の程遠さが縮まることはなかった。
男だ。
いや、別に性別は問題ではないか。
その物陰から大股で姿を現した大男は度外視できないくらいに薄汚れていたのだ。茶色に変色した綿の布着に、生地筋が荒く各所で糸が解れてしまっているオーバーオールのような衣服を身にしている。腹回りにははち切れんばかりの駄肉が天然の外套となっており、中年男性であれば実によくある肥満体型だ。別に私が肥満に嫌悪を示しているわけではない、それ以外が余りにも品に欠けるのだ。多分に漏れず顔面も駄肉に支配されているわけだが、その上には全く手入れが為されていない遊んだままの髭が汚らしく生えている。
頭部の毛量は乏しいというのに、顎から鼻下まで連結した髭の毛量は凄まじかった。手入れもないものだからふけが目立つし、所々に白髪が混ざっている。また、脂が付着したか、一部が固まってしまっている。
下卑た表情、目先の欲望の発散しか頭にないことを容易に窺わせる視線だ。なんとなく、そんな様子に覚えがある。現状の記憶が正しいとして、私が知る最悪の世界の落伍者と寸分違わぬ瞳をしている。下品に口角を釣り上げ、僅かに彼奴の唾液が唇の端から泡となって漏れ出ている。
(これなら野生動物の方がマシね……)
彼奴の背中には何本もの器具が掛けられているが、銃刀法適用待った無しの異様な刃渡りの出刃庖丁に、現実ではそうお目にかかれない大振りな鋸。それらから類推するに、彼奴は近隣の木こりか?
この様子を見て、妻を娶ることもなく、子を成すこともなく、長らくの女日照りなのかもしれない。いや、もしや女性経験と呼べる経験がないのかもしれない。だからこそ、凡そ5、6歳にも満たない私に斯様な眼差しを送るというわけか。
彼は私が即座に逃げ出さないことをいいことに、がっと詰め寄り、そのまるまると太った腕で私の胴部を押さえつけた。
予想通りの行動をどうもありがとう——そう意地悪い言葉を彼奴のこれまた不潔な耳元に嘯いてやろうか、とも考えたが男は真っ先に私の口唇並びに鼻腔を駄肉によって剥れて水膨れのような掌で塞ぎこんだ。
ふむ、悲鳴を出させない為というわけか、存外警戒心だけは豊富というわけだ。
だが、そんなことよりも単純に鼻孔の奥深くに伝う異臭をどうにかしてほしい。刺激臭……というよりかは腐卵臭か。その匂いは僅かに酸を窺わせ、牛乳を吸わせて数日間放置した雑巾を無理矢理に嗅がされた気分で、最悪である。
ともあれば失神は不可避だ。そうなれば、否応無く私はこの豚の慰め物だ。それだけは嫌だ、甘酸っぱい青春なんていう色香なぞに興味があるわけではない。たぶん、不明瞭な記憶の中で私はそのようなものは不要だと既に断じている。が、何でも誰でもいい春を売るような女でもない。だから、こいつを止めないと。
助けが来る気配はない。それもそうか、私は浅いとはいえ人気のない森林に足を運んでいた。その時点で救援が絶望的なのは予想がつく。
(嗚呼、もう……)
人間の本質は如何に願おうともそう容易く変わらぬものか。
最悪の世界での時とはほんの少しでも違った、誰にでも優しい人間になれるかもという、無意識の内に抱いていた一握りの希望にはやくも諦観を持つことに。
あの豚は、幼女など喉と唇を押さえておけば事足りると油断しきっている。首に手を固定し終えたら、もう勝ち誇ったか、オーバーオールの脱ぎ始める始末だ。
馬鹿ね。
私は自由のままの腕で出刃庖丁を簡単に抜き取って、豚の顎との境界線をなくした首元に横から突き立てた。すると、鳩に豆鉄砲を食らったかのように豚は目をこれでもかと見開かせ、涙が噴き出す。経験のない痛みだったのか、私を拘束することを忘れ、後ろに転がった。
その場をのたうち、声にもならぬ声で何かを唱える豚を私は余裕の足取りで追いかける。
馬鹿は死ななきゃ治らない、か?
強姦しようというのに、みすみす反撃を許す武器を携えてきてどうする?
そんなの……新手の自殺願望にしか見えないじゃない。
私は豚の首から出刃庖丁を簡単に引き抜き、それを今度は腹部、胸部と順番に突き立ててくる。そして、その箇所が十箇所を超えたあたりで豚は完全に動かなくなった。
さて、ファーストコンタクトは実に最悪だったわけだが、とりあえず先の水溜りで返り血は洗い流しておこう。セカンドコンタクトまであらぬ展開になるのは御免だ。
取り敢えず、馬蹄の音が聞こえた方向に進むと、木々はなくなり、傾斜のある草原に出くわした。
失念していたが、というか、この年頃だと父母的な人がいてもおかしくは……。
「「カノン!!」」
重なり合う快活な男女の呼び声。
嗚呼、父母らしき存在はたしかにいた。
本当は前編と後編を込々で一話でしたが、それだと長すぎるんで分割にしました。