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兄と妹


 志賀夏子自室にて。

 彼女は片手にスマートホンを持ったまま、ごろんと背中からベッドに倒れる。

 スマートホンを天井にかざして、その画面をスクロール。先程の発信履歴を見ようとするが、画面が横に回転し、なかなか上手くめくれない。

 一旦うつ伏せの体勢になって再びチャレンジ。枕の上に顎を乗せ、両手を伸ばして画面を見る。

 発信履歴には兄の職場の電話番号。

 我ながら馬鹿だと思った。

 一体どこの世界に、兄の職場の連絡先まで登録している妹がいるだろうか、ましてや帰りが遅い程度の事でわざわざ電話するなど、親でもあるまいし普通はまず考えられない。むしろ親でさえ、子供の職場なんぞに電話はしないだろう。

 一人前に立派に働いている訳だし、まるで帰りの遅い小学生を心配するような、そんな電話を掛けようものなら一体どんな家庭なのだと変に思われても仕方ない。電話をされた方はいい迷惑だ。

 少々気が早ってしまったか。いや、そもそも本当に何かあれば向こうから電話があるに決まってる。

 やはり少々気が早ったのだ。

 今更ながら、自分のした行動が恥ずかしい。

 そう思いつつ彼女は枕に顔をうずめた。この電話のことは、兄に聞かれたらどう説明しようか。いや、兄は兄で嘘をついていた訳だし、そんな事を問い詰められる義理はないだろう。 そう、まずは徹底的に説教をしなければいけない。

 なんとなくは察していたが、やはり兄は地下の仕事をしていた。

 地下は危険で、あれだけやめる様に言ってたのに……、どうやら兄は、地下に潜らないと駄目な体質なようだ。そんなに地面が好きならば、いっそ地面の中に住めばいいに。

「……」

 なんとなく兄の携帯に電話してみる。

 当然だが繋がるはずはない。

 やはり心配のし過ぎなのだろうか。そもそも冷静になってみれば、兄の仕事に口出しすることも普通はあまりないだろう。

 兄は家族だが、お互いがお互いに別々の違う人生を自由に生きていくわけで……。


 けれど、そんな普通に見えても、この関係には一般論に当てはまらない箇所がいくつもある。

 父と母は少し昔に他界した。らしい。

 残された二人が唯一の家族。お互いがお互いに、親の分まで心配するのは自然とも言える。ましてや兄は、危険の伴う仕事をしているのだ。

 普通より心配していたって、それも当たり前。

 もちろんそんな事、大学の友達にも、おじさんにも、無論兄にも絶対に言うつもりはないけれど。 

 スマートフォンのデータには、家族の写真がいくらか残っていた。たまに見る事があっても、そのほとんどは全くわからない昔のものだ。


 私にはわからないのだ、どれが父でどれが母なのか。唯一わかるのは今も健在である兄の顔だけ。兄だけが家族として判別できた。

 そう、私には過去の記憶がない。四年前の事故で記憶を失い、それ以前のことは何も、家族のことも、それまでの人生のことは何一つわからない。

 そして唯一兄がいる。その彼も私にとっては四年前からの兄である。

 そんな私は彼の妹だ。血の繋がった四年前からの妹だ。それ以前の彼の妹、私の中に眠る彼にとっての本物の妹はもう死んでいる。記憶はもう絶対に戻ることはないと診断されたのだ。


 写真の彼は顔は同じでも表情は大きく変わったように見えた。これもあの日から、なのだろうか。

 そして私も変わった。写真の中の自分がわからない。

 一体昔はどんな感じで、どのようにお互い接していたのだろう。

 写真の兄は、むすっと不機嫌で、私はそんな兄に甘える様に飛びついている。

 今では考えられない光景だ。

 だがこんな恥ずかしい写真でも、どうしても削除することはできなかった。

 これは今でも秘密のフォルダに隠し持っている。

 ……もしも。

 もしも、あの日あの出来事がなければ、昔と同じように今もこんな風にしていたのだろうか。

 記憶を失う前の兄と妹は、今の私たちを見てどう思うのだろう。

 とにかく、今は早く帰ってきてほしい。

 私の胸の隅っこには、いつも黒い影が不安げにこちらを覗いてる。私はその黒いものに気付いきながら、知らない振りを続けていた。

 しかしそれは本当に時々、取り留めもなく私の中に渦を巻いて、胸の中が真っ黒に、自分ではどうしよもなくなるのだ。


 *  *  *


 その光景については、いささか曖昧だ。

 それはとても巨大で、且つおぞましい物であった。

 今でこそ大分ぼやけているが、あの強烈な感覚だけは、はっきりと体が覚えている。

 そこは地中の奥深く、朦々と熱気が立ち込めており、蒸気の中から巨大な『あれ』が顔を覗かせていた。

 地面は鼓動で唸り、上からはパラパラと小石が降り落ちる。

 巨大な『あれ』の他にも、相対的に小型の個体が複数いた。

 こんな場所にこなければ良かったと後悔をする暇もなく、それらは波の様に押し寄せる。

 既に何人もが死に絶えた。

 ここで逃げるか、抗うか。

 術を持たずして抗う事、そこには意味があったとしても、実質的な効果はなにもない。

 ここで抵抗しようが、時間稼ぎはできて数秒。

 しかし、体は逃げる事を選択しない。

 無論そのつもりは毛頭ない。

 振り返れば後ろにはもう誰もいない。

 それでいい。

 それでいのだ。

 自分より後ろを走る者が、自分の前に転がる屍のようにならなければ、それでいい。

 片手に握った拳銃は、既に弾の尽きたガラクタ同然。それを相手に投げつけると、いよいよ武器は無くなった。

 一体が自分に襲い掛かった。

 自分もそいつに襲い掛かった。

 けれども、力の差は歴然。無意味に飛び掛かった自分は、まるで飛んで火にいる夏の虫。

 と言っても、虫は相手の方だが。

 どうやらここで終わりのようだ。既に色々諦めがついてる。

 痛いのは嫌だが、まぁ一瞬だろう。


 しかし、そんな時に予期せぬことが起こり得た。

 どうやら自分一人では、足止めには不足であったようだ。

 あの小型の虫共全てが、自分だけに襲い掛かろうはずはない。何体かは、自分に見向きもせずに後ろへと抜けていく。

 それは駄目だ。

 絶対にならない。

 もう一度全身に力をこめて立ち上がろうとする。

 だがしかし、それはもう遅かった。

 両足が鋭い牙に捕まってる。

 それに構わず力一杯抜け出そうとするが、そうすればするほどに足の痛みは焼ける様に貫いた。

 必死で逃がした者たちを、お構いなしで追跡するゴキブリ達。

 痛みを伴う悲痛な叫び、高鳴る唸りは地下に響き渡った。

 その方向に右手を伸ばす。

 しかし、新たに捕食に加わった一体が、その突き出した手の平を顎でガッチリ挟んで噛みつく。

 そして眼前は赤く染まった。

 最後に叫ばれる、死力を尽くした喉の振動。

 それが意識を失う直前の最期の記憶、最後の声であったのだ。



「夏子!」


「ぎゃははははははっ、残念! オレだぁああ! ぎゃはははははははっ」

 潤史朗がはっと目を開けると、目の前には虫。ゴキブリとは違う、でかいクワガタムシが顔を覗き込んでいた。

「……なんだ、クガマルか。よかった。いま、僕なんて叫んだ?」

「妹の名前を言った」

「そう」

「随分うなされていたようだが?」

「まぁね。少し夢を見ていたんだ。多分、昔の事なのかな」

「まさか思い出したのか? 四年前のこと」

「ははっ、まさか。そんな寝るだけで記憶が戻るならどれだけでも寝るさ」

「だろうな、思い出す訳がねえ。だがまぁ深度はあの時と同じくらいだ、温度も近い。もしかしたら夢くらいはみるかもなぁ」

 これも失った記憶の断片かと潤史朗はため息をつく。あまりいいもでないのは間違いない。ただそこに、もしかしたら昔の妹がいるんじゃないかと少しの期待があった。自分の知らない頃の妹の姿が。

 お互いに四年前以前の記憶がない兄と妹だ。今の関係がどうという事ではなく、単純な興味として昔のことは気になるものだ。

 だが、もしそこにあった彼らの姿が今とはかけ離れていた時、果たして今の二人は偽りでないと言い切れるのだろうか。そんな微かな思いがたまに頭を掠めていく。

 心配ない。どのみち、そんな過去のことは確かめようがないのだ。

 どうにもならない昔より、今は今目の前のことを何とかすべきである。

 で、ここはどこだったか……。


 潤史朗は体を起こし、周囲をゆっくりと見渡した。

 あまり広くないエレベーターの中。バイクの後部から上に伸びた投光器は周囲を黄色く照らしているが、僅かに立ち込める白い蒸気が、その光を所々遮っている。

 しかしそれでも目立つのが、その辺に転がるゴキゲーターの死骸の山。

 まだ死んでから間もないため、それらの足は若干ぴくぴくと痙攣していたが、どうやら全て殺虫できていたようだ。

 まぁ、そうでなければ目を覚ますことはなかったが。

「僕、生きてるんだ」

「数時間寝てただけだ。ま、お陰様で最下層だがな。地下一万メートルは超えてるだろうよ」

「そうか。何か不思議な感じだね」

「のんきなもんだなお前は。色々確認してみろよ。この現状、あんま笑えねえぞ」

「まぁ何とかなるって多分」

 潤史朗は立ち上がると、側頭部にいつも装着しているアクションカメラのライトをつけた。

 状況の確認に入る。

 気温三十九度、湿度百パーセント、現在位置にあっては不明だが、地熱のことを踏まえて推測するに、地下深度一万は超えているだろう。

 またバイクの方は、ゴキゲーターの死骸に埋もれて前輪が変形、走行はまず不可能だ。

 背負っていた殺虫剤、メガキラーの残圧はゼロ。残りのボンベはバイク積載の一本のみ。そして小型のボンベ、爆散殺虫グレネードは全て使い切った。

 以上が大まかに見たところの現状だ。確かに、確かにあまり良いとは言い難い。

 そして、その他のバイク積載品を確認しようと、周辺に移動すると、陰でうずくまる若い男を発見した。

 確か彼の名前はヒカ何とか。

 膝を抱えて座り込んでおり、顔を伏せて啜り泣いていた。

「やあ」

 潤史朗はしゃがんで男の顔を覗き込んだ。

「うぐっ、うぐっ」

「怪我は?」

「ぐすっ、ぐすん」

 泣きじゃくるヒカリンは首を横に振って答えた。

「そうか。良かった」

「何もよくねえぞ」

 クガマルが言う。

「その生ゴミは死んだ方が良かった。どう考えても邪魔だ」

「そうかなぁ?」

「天然ボケもほどほどにしとけジュンシロー。現状は把握したろ、地下一万でメガキラーは一本、バイクは廃車だ。今のオレ達にコイツを助ける余裕はねえ。仮に余裕があっても、助けたところで社会の負債が増すだけだ。ましてコイツは自力で動けそうにない。よってここに置いていく。わからんとは言わせねえぞ」

「いいや。それは駄目だね」

「どうやら、まだ頭が寝てるようだなジュンシロー」

 クガマルはぶんと飛び、潤史朗の顔の正面に向き合った。

「いいか、よく聞けジュンシロー。偽善ってのはなぁ、地上に生きる裕福で暇な奴のごっこ遊びなんだ。だが今の俺たちに、そんな遊びに興じてる余力はない。まず自分が生きろ。そして他人は殺してでも見捨てろ。この感覚は上の連中には絶対わからねえ。死ぬ感じを肌で触れた事がねえから意味不明な綺麗ごとを抜かしやがるんだ。そしてお前はその豊かな地上民に毒されつつある。目を覚ませ、ここは死の極地だ」


「……クガマル」

 潤史朗は静かに言った。

「僕がこの人を助けると、まだ言ってはいないよね?」

「違うってのか」

「甘くみられたもんだね。僕も」

 立ち上がる潤史朗。

 彼はヒカリンの後ろに立つと、腰のホルダーからゆっくりと拳銃を引き抜いた。

「お、おい、ジュンシロー?」

「殺してでも見捨てろ。今そう言ったね」

「ああ。その通りだ」

「命ってのはさ、何事に置いても決して最優先にされる訳じゃない。理想を語る偽善を剥げば、それが実際だ」

「わかってんじゃねえか」

「そう、そして僕の命のもそうだ。時にそれは最優先でない。じゃあ果たして僕の命は僕の中で何番目のものなのだろうか」

「……」

「一番じゃない、当然だ。多分二番目でもないだろう。結構低いのさ、僕のそれってのは」

「おい、お前は一体何の話をしてる」

 不審がるクガマル。

 しかし潤史朗は構わず続けた。

「命のリスクよりも優先される目標があるのさ、僕にはね。そしてその一つに挙がるのは、この地底世界の解明」

「……」

「よって、この人は一旦保護する。そのリスクは厭わないさ」

 そう言い放つ潤史朗。

 すると彼は、拳銃のカートリッジをグリップ部の下から抜き取り、そこに詰まる弾丸の個数を確認した。

「ほら! まだここにも武器がある。僕が知ってる過去最悪の状況には、まだまだ遠く及ばないさ」

「おい、撃つんじゃねえのかよ」

「はぁ? 馬鹿なの? 撃つ訳ないでしょ? 僕をどんな人間だと思ってるのさ」

「だから少し驚いたんだろうが! って、そんな事はどうでもいい! お前の言ってることは訳がわからねえ! 一体どう転んだら、地底の解明と、この男を助けることが繋がるんだ!」

「ま、一連の不可解な現象を考えると、この人はキーパーソンだよ。ここで見捨てることは大きな損失だ」

「ホントかよ」

「もちろん、そうでなくても助けるけど」

「だろうよな、お前は。どうなっても知らねえぞ」

「立てる? ヒカさん」

 潤史朗は再び、ヒカリンの元にしゃがんだ。

「えぐっ。う、うん。たてますぅ」

「よし」



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