尾張中京都 ーⅠ
男は自宅に到着する。
小綺麗な建て売りが品良く並んだ住宅街。少しアンティークな作りを意識したミニ洋館邸宅が通りに並ぶ。街灯までにも西洋風な装飾が施され、この区画一帯が、どこか異国の町であるようだ。
こんなところに住処を構える男、お隣さんは医者か弁護士もしくは社長か。軒先に並ぶのは大体セダン、もちろんメーカーの最上級モデルに決まっている。それで、それに比べてこの家は……。まさに軽トラック。しかしこれに限って問題は無い、趣味で広大な家庭菜園をしている設定だ。
さて、それではこちらのお宅になるが、表札こそ彼の名字とは異なるも、それでも彼の寝床には間違いなく、そしてここに帰りを待つ者がいるのだ。
「ただいま~」
玄関の扉を開いて中に入る。
大きな荷物は、高性能ドローンたるクワガタロボに吊り上げさせ、自分が持つのはバックパックのみ。それを中へと放りこむと、安全靴の靴紐を解いた。
「おかえり、ジュン」
座って紐を解く男の背後から、聞こえて来たのは女の声。男は一旦振り返ると、彼女の方を見上げて言った。
「ジュンではないぞ。お兄さん、もしくはお兄ちゃんと呼びなさい。よろしいかな?」
そこに立つのは、この男の妹である。
細い体に、ストレートの黒髪。切れ長の目がこちらを見下ろした。
見た感じの年齢は十代後半くらいだが、彼女は何故か仁王立ちで通路を阻み、険しい顔を男の方に向けていた。
「おやおや、何かあったのかな、妹よ」
「は?」
「おばさん今日はいないの?」
「まだ仕事」
「そうか。では妹よ、一体どうしたというのか、なにか様子がおかしくはないかい?」
「どうしたと思う?」
「ふむ、さては兄の愛に飢えていたのだろう。安心しなさい。この兄はいつでも妹のことを……」
と喋っている間、彼女の怪訝な表情がぴくりとも変わらないことに非常に良くない雲行きを察した。男は素早く話の方向性を修正する。
「……ふむ、何かお怒りのようだが」
「そうだよ。お怒りだよ、私」
「そうか、なるほど。兄は悲しいな」
「まぁいいや。とりあえず上がれば」
「無論」
靴を片付けて家に上がる男とクワガタ。
クワガタは、通りすがりに妹の方を向いて飛ぶ。
「タダイマ! タダイマ! ナツコ、タダイマ!」
「うん、お帰りクガマル」
「タダイマ! ナツコ、タダイマ!……」
絵に描いたようなロボット声を出すクワガタであった。先程までの邪悪なお前は一体何処に行ったと突っ込みたくなる。
このドローンは家のなかではロボットらしく振る舞うよう言われているのだ。流石に素を出すのはいかがなものかと。しかしながら、演技に対しての、まるでペットを見るような妹の反応、クワガタロボ自身はそこまで嫌ではなさそうだ。
「家に帰ってまず冷蔵庫、そしてコーラを開栓し、ぐわぁっと流し込む一本! くぅうううううっ。よい! 叫びたい! 最高だぁああ!」
「コーラ、ウマイ! コーラ、ウマイ!」
「そしてぇええ、更にプリンを発見するジュンシロー! おーっとこれはっ。駅前の何かよくわからん高級っぽいやつだぁ!」
「コウキュウ、プリン! コウキュウ、プリン!」
「それ私のだから。あと冷蔵庫いつまでも開けとかないで」
妹が後ろで冷たく言い放った。
「そうか。ふむ。では致し方ない」
「シカタナイ! シカタナイ!」
と、そうして渋々冷蔵庫を閉める男。しかし甘味などそもそもどうでもいい、彼の真の目的はその上の棚に隠されているのだ。
「だが、僕の本命はそこのカップラーメンにある。プリンなんてどうでもいいさ! さぁ! 極上のカップラーメンを! いま!」
「カップラーメン! カップラーメン!」
「は?」
妹の声、音階が随分下がって耳に届いた。
「え?」
「は?」
「ふむ」
とりあえず、そっと棚を閉めておいた。何を怒っているのだろう、そしてまさかラーメンを食わせない気か、この妹。いや、鬼。
「妹よ、何故お兄ちゃんのラー……」
「ねえジュン」
阻まれた。
「潤史朗さ、……地下で仕事してるよね?」
妹は、背後で呟くようにそう言った。
男の動きが止まる。
「地下で、働いてるでしょ」
「うん? え? いや」
「この前聞いたとき、事務の仕事って言ってたよね?」
「ジムシゴト! ジムシゴト!」
「うむ。そうとも妹よ」
「でも今日地下にいたよね? 仕事で」
「ん?」
男は首を斜めに捻る。
男は思う。これはやばい。いや何故秘密にしている地下業務をなぜこの子が知っているのだろうか。
まさかの臭い。いや、支部に戻ってからしっかりとシャワーを浴びた筈だ。むしろ「お兄ちゃんいい匂いだねっ! 素敵!」と言われてもおかしくないはず。
わからない。妹よ、一体どういうつもりだ。
取り敢えず男は、さっとクワガタの方に目をやった。
「コーラ! ウマイ! プリン! ウマイ!」
使えないロボットだ。
「地下に潜ったり、そういう危ない仕事はやらないでって言ったのに」
「ほうほうほう、妹よ、君はなぜお兄ちゃんが地下にいたと思ったのであろうか。そこんとこぜひ詳しく教えて頂きたいなぁ」
「来て」
「うむ」
久々に入る妹の部屋。所々に女の子らしさはありつつも、シックな感じのインテリアだ。
そして案内されるのはノートパソコンの前。妹はおもむろにパソコンを起動しすると、動画を再生し始めた。
――「は~いどうも、こんにちわ~。ようこそ! ヒカリン・チャンネル! ヒカリンで~す」
マジかと。
動画の中にバイクで現れる男は間違いなく自分だ。アクションカメラが放つフラッシュライトの逆光により、はっきりと顔は映らないが、家族であれば十分にわかる程度であり、また、今も耳の上に着けているアクションカメラが動かぬ証拠だった。
「どういうこと?」
「え? ああ。うん。そうね、うん。そうさ」
「ねえ」
「お、おう」
妹の顔が目の前に迫った。切れ長の目がこちらを直視している。
「おうじゃなくて、これジュンだよ。映ってたひと」
正直なところ、実は大変ほっとしていた。
こうして動揺して見えるのは単に妹の顔が近すぎるからだ。怒っていても美人だなと、頭では全く別の思考が回っている。
実はあの事件のあと、公安職員と共にビデオカメラを確認し、一番まずいところは映ってないと確認していたが、それでもこうして改めて見て、例のあれが映ってないとわかると安心した。
もし、これが最後まで映ってたらどうなっていたことやら。男はそっと胸を撫で下ろした。
「ソレ、チカ、チガウ! チカ、チガウ!」
クワガタロボがおもむろにそう言った。
「え? どういう事?」
「つまり、そういう事だよ、妹。この痛い人たちは、自分たちが地下五千メートルに来たと嘘を言っていたんだ。それで公安も騒いで。ね、クガマル」
「ソノトウリ! ソノトウリ!」
「そう、なんだ……」
「そうなんだ。だから、……まあ、心配かけてごめんな。お兄ちゃんは大丈夫だから。まぁもし何かあったとしても、愛のパワーで兄は必ず家に帰るよ。ちゃんとね」
「きもい」
「ははは。妹愛ゆえのキモさならばむしろ歓迎だとも。んじゃ、まだ仕事残ってるから、さらばっ」
ナイスであるクワガタムシ。どうやら地下潜入の妹の疑いは完全に晴れたようだ。
だがそれよりも、兄よりもドローンの方が発言に信頼があるのは一体どう言うことだろうか。まあ、ロボットだから当然なのか。いずれにしろ一件落着である。
そうして、妹の部屋を出ようとしたところだった。不意に引っ張られる服の袖、二本の指が優しく摘まみ、部屋を出るのを引き留める。
「待って」
「ん?」
「……オムライス、あるから」
「そうか。……それは、いいな」
「適当に温めて食べて」
「おう」
そうして後にする妹の部屋。が、しかし男はもう一度、少し戻って彼女の部屋に顔を覗かせた。
「ありがとな。夏子」
そしてそれに答える妹は、本日最初の笑顔を彼に見せるのだった。
男は部屋を後にする。
「確かに。妹の手料理があるなら、カップラーメンなんぞ全く要らんわけだな」
「ラーメン、フヨウ、ラーメン、フヨウ」
* * *
「さてと」
「感謝しろよな、お前。言い訳に困ってただろ」
自室にて、素に戻ったクワガタがそう言った。
「そんな事ないさ。結局のところ愛の大きさがものを言うのだよ、クガマル君」
「何言ってんだお前」
「おや……部屋が片付いている」
「夏子がやったんだろ」
「でしょうな」
男はそう言うと、部屋の隅に置かれたガラスケースのところまで、いそいそと這って近づいた。
「よし。減ってない」
ガラスケースの中に収まっているものは、男が長年かけて集めた食玩コレクション。
ケースの中には古代生物大百科と題された、様々な生物のフィギュアが並べられていた。
「……捨てろよ」
「あり得ん。たわけめ。これを集めるのに一体どれだけに歳月とコストが掛かっていると思う?」
「知るかよ」
「実に一ヶ月と5万円」
「全然意外な答えじゃねえことに驚いたわ」
「何とでも言うが良いよ。今度は深海の生物シリーズを集めるんだ」
と、しばらくコレクションの前に張り付いていた男だが、いい加減そろそろ明日の仕事の準備をしなければいけない。
ノートパソコンを開き電源を入れる。
それが起動するまでの空いた時間、男はコードを引っ張ってくると、それをクワガタロボットの尻に突き刺した。すると羽の隙間が赤く光る。これが充電中のランプであった。
「なんの仕事だ」
「スライド作る」
「スライド?」
「うん。あした何かどっかの大学で講演しなきゃあかんのよ」
「お前が? 大学生に? ぎゃははははははっ、それ受けるわ。学生たちゃこう思うぜ、一体どこの餓鬼が来やがったのかってなぁ。ぎゃははははははっ」
「まあ、そうだろうねえ。うん」
「お前の話なんて絶対聞きゃしねえよ。ぎゃははははははっ」
「クガマルさんや、ちょっと家の中モードに戻ってくれませんかねえ」
「ぎゃははははは、断るぜ! ぎゃははははははは」
パソコンに向かってキーボードを叩き、ぱちぱちと作業を進める男。クワガタロボットは、暇なのか、部屋の中をなんとなく飛んでみたり、再起動してみたり、ゴミを顎で切断してみたりと忙しない。これもいつもの光景なのだが、暇つぶしするドローンなど、恐らく世界にこれだけだろう。そしてこれは案外おしゃべりだったりする。
「それでジュンシロー、明後日以降はどーすんだ? また新種の害虫捜査なのか?」
「いいや、それよりも抜け穴調べになるだろうね」
男は手元を止めずにクワガタに答えた。
「どーいうこった?」
「今回侵入した一般人が三名。公安隊の人らも不思議がってたよ、一体どうやって侵入したのかって。地下五千の境界層は厳重に警戒しているし、全てのゲートを常に監視してる」
「なるほど」
「それでもし、公安も知らない穴があるとすれば、それは大変まずいことだよ」
「だろうな。今日みたく、境界付近にゴキゲーターがいる可能性も十分ある」
「もしもそんな穴が本当にあったら……」
「滅茶苦茶おもしれぇええじゃねぇえええかよぉおお。ぎゃはははははっ」
「そう言う事さ」
「ぎゃはははははははは」
「だからヒカ何とかさんの脳外科送りは一旦差し止めてる。変に記憶を改変されちゃあ、重要な情報がパーだからね」
「そもそもパーみてえな脳味噌だろうがな。いっそ全ての記憶を消してやれ、その方が面白い」
「公安隊に言っておくれ」
「ぎゃははははは」
「スライドできた」
「おう、ご苦労」
「寝る」