地下5千メートル ーⅡ
「チカコちゃ~ん、ど、どこ~?」
まさかこんなにも暗いとは。これは完全に予想外であった。
チューバーことヒカリンは暗闇の中現在地を見失い、アイドルの片方と、はぐれてしまったようだ。
自分の前方を照らす明かりは、バッテリーぎりぎりのスマートフォンの画面のみ。先ほどいた地下道は暗いながらも照明があったが、海抜五千メートルの場所は、人工の光源さえ無ければそこに真の闇が実現するのだ。
そしてこの金髪の男は、無謀にもライトーつ持たずに飛び出した。恐らく自撮り用ビデオカメラには何も映ってはいない。
「ね、ねえヒカリンさん。帰ろ? なんかやばいよ、凄い暗いもん」
「いや、でもチカコちゃんいないじゃん」
「チカコならもう戻ってるって! あの子そういう子だし」
この暗闇の中、一人はぐれたアイドルのチカコ。ユウカの方は幸いにもヒカリンと合流を果たしたが、彼女はヒカリンの背中にしがみつくように引っ付き、またヒカリン自身も身を縮こませる。
「もう帰ろ。ヒカリンさんっ」
ユウカは少し声を大きく言った。
「いやでも……」
「チカコは大丈夫だからっ」
「そ、そうだよね。うんきっとそうだ。ははは」
暗い暗い闇の中。
帰る、戻る。
一体どこへ?
既に方向感覚は失われた。
もう右も左もわかるまい。
唯一わかるのは、お互いに服を掴んでる、その感覚のみだ。
足をぶつける、錆びれた鉄の階段だ。
ぶつけて初めて認識できた目の前の階段。
昇るか、昇らないか。
だが、来たときは階段など降りてはこなかった。
ここはどこ? 今入り口から何メートルくらい?
もう何もかもが狂ってきた。
「もうやだぁあああ。ウチもう、ムリ」
ついにアイドルユウカは小さく泣き出した。
しかしチューバーのヒカリンとて、恐怖で泣き出す女性に男らしく声を掛ける余裕など欠片も残ってはいない。寧ろ泣き出したいのは自分だ。このまま本当に帰り道がわからなくなれば、もう動画配信どころじゃない。
ふと、冷静になると気が付く……。
ここは地中の五千メートルだ。更に一般人の立ち入りは禁止、ここで迷子になったらどうなるか。それは、どこかの山で遭難したどころの騒ぎではない。歩き続ければいつかわかる場所に辿り着くなんてことはあり得ない。
そう、ここは地下五千メートル。それはつまりそういうことだ。
「大丈夫おれは大丈夫、絶対大丈夫、おれは大丈夫」
ヒカリンは、まるで自分に暗示を掛ける様にそう呟いた。
ゆっくり前に進む二人。
ちょうどその時、音がした。
それは前方から、ゆっくりと。
カタン、カタンとゆっくりと。
「音がする。ねえ何か、音するよ?」
ユウカは先ほどよりもさらに強くヒカリンにしがみ付いた。
「だ、大丈夫。あ、そうだ。きっとチカコだよ。絶対そうだ」
「え? そ、そうなの?」
「ぜ、絶対そうだし。だってあの子って、そういう子じゃん」
「そう、なの? そう、かな」
「ほら、チカコちゃ~ん。おれじゃんおれ。こっち来てよ」
そう言ってお互い接近する、音とヒカリン。
カタン、コトン。
鉄板の床が小さく響く。
「ほら、こっち」
ヒカリンのかざすスマートフォンが、暗く前方を照らした。
やがて姿を現す音の正体。
足。
それは足だ。
下から順に、黒いブーツとニーソックス。そしてその上には、赤いチェックのスカートが照らされた。
「チ、チカコちゃん。も~まじビビるから返事してよ」
そして近づくにつれて、スマートフォンの明かりは更に女の上を照らす。
そこにあるのは、何だろう。
赤い……。赤い何かがぶらぶらと。
やわらかそうで細長い、とても湿っており、ボタボタと垂れる。
次の瞬間、バチンと何かが音を鳴らした。
そして地面に落下する、チカコの下半分。
わけがわからない。
スマートフォンが照らす小さな明かり。
目の前にいるのは少なくともチカコではない。
いや、全くの別物だ。
そこにいたのは、何か異形の生命体。
巨大なゴキブリに見えた。
そのゴキブリがどれほどの大きさだったかはわからない。少なくとも人間よりかはずっと大きいが、全貌はよく見えない。
しかしゴキブリの顔面はよく見えた。左右に開く口からは、誰かの小さな白い手が、にょきっとそこに生えており、そしてズルズルと中に呑まれてく。その様子はよく見えた。
「え……」
一瞬の沈黙。
ゴキブリがこちらに顔を向けた。
声にもならない叫びが上がる。
走る。とにかく走った。上着の裾を、女か何かに掴まれたような気もしたが、そんな奴に構っている余裕などない。
ゴキブリが、でかいゴキブリがチカコを食べていた。
ただそれだけ。
ただそれだけだが、このままでは死ぬ。どこでもいい、どこでもいいから出口に向かって走らねば死ぬ。
「やばいやばいやばいやばいやばい」
* * *
「いたぞ」
クワガタロボットはぶんと飛翔すると、工場内を検索する男の腕に飛びついた。
「何がいた?」
「役者が全部」
丁度次の瞬間、どこかで聞こえる誰かの叫び声。
つんざく悲鳴は、まるで喉を捩り倒すような奇声である。
男とクワガタは一瞬顔を見合わせると、その声の元へと直ちに向かった。
暗闇を駆ける二つの光。それは男のアクションカメラと、クワガタ装備のフラッシュライトだ。
途中、べキッっと何かが足の下、安全ブーツの裏に感触を得た。
下を照らすと、血の塊と固いもの。恐らくどこか、離断した人体の一部だろう。
「ぎゃははははっ、一人食われてやんの、ぎゃはははははは」
クワガタロボットが言った。
「先を急ごうか」
* * *
何が何だかよくわからない。でも走る、ただひたすら前を走った。今、全身が、命に対して警報をならしているのだ。
走る、走る、そして走る。
しかし、次に踏み出したその足は、接地する場所を見失う。そして更に踏み込む次の足、しかしその足の裏にも地面の感覚は掴めない。その恐ろしい感触に心臓が一瞬止まった。
目の前は階段、高さは全く分からない。
ヒカリンは叫ぶ間もなく、鉄の階段を転げ落ちた。
回転しながら下へ下へと落っこちる。そうして何回転か後に、地面が体にガツンと当たり、その衝撃で転落は止まった。
「うひゃぁあぁぁああ」
ヒカリンは、まず自分の後ろをスマホで照らした。
大丈夫だ。あの化け物はここまでは追っては来ていない。どうやら逃げ切れたようだ。
しかし次に気になったのは後ろから来ていたはずの女の行方。全力で走ったせいで、はぐれてしまったのか、いやそれとも……。
「ユ、ユウカ、ちゃん?」
彼女の姿はどこにも見えない。階段の上には、まだいるだろうか。
ヒカリンは立ち上がり、階段に一歩足をかける。
しかしその時、焼ける様な激痛が両足に。どちらの足も一歩も動かない。ヒカリンは再び腰を下ろした。
スマートホンで自分の体を照らした。よく見れば全身血だらけ、上着もズボンもビリビリだ。先ほど目にした地下衛生管理局を名乗る男の作業服もかなり汚れはひどかったが、今の自分はそれを上回る格好だ。血みどろのそれは、既に服と言うよりはボロ雑巾である。
そうして全身を見回してみると、上着の裾の方が不自然に引っ張れるのがわかった。ちょうど自分の真後ろ当たり、何か違和感を覚える。
ヒカリンは後ろに手を回し、その異物らしきものを服から引き離してみた。
「なんだこれ」
自分の手が、手を掴んでいた。
一瞬自分の手が、ぼやけて2つに見えたのだと思った。しかしそれは違った。
自分の右手が握っているのは誰かの白くて細い腕。それは、その肘辺りから上の部分が千切れていた。
断面から飛び出す骨は白く鋭く、その千切れた端から血液が滴り落ちている。そして反対側の指先には、自分の服の破れた布が挟まっていた。
これが誰の腕なのか、もはや考えるまでもない。
「あ、あ、ぁ……」
「はいぃぃ~、叫ばない叫ばないっとぉ」
ヒカリンの口から大響音が噴き出すその寸前、大きく開けられた口に、すっと誰かの手が当てられた。
現れたのはガスマスクを付けた男と、やたらデカいクワガタムシ。デカいと言っても大きさは小型犬ほどで、先ほどのゴキブリと比べれば可愛いものだ。
ヒカリンは突然出て来たその男に大変驚いて暴れる回るが、彼の側頭部にくっついたアクションカメラが目に入り、それが先ほどの地下衛生管理局員だとわかると少し落ち着いた。
「落ち着いて、静かに。地底の昆虫は、光以外には敏感なんだ」
男がゆっくりとした口調でヒカリンに囁く。ヒカリンは震えながらも、その言葉に頷いた。
「もう大丈夫だね。怪我は?」
男は、その手をヒカリンの口からゆっくり離した。
「お願い、助けて。お願いだから、まじ死ぬ。死ぬよ。頼む。助けて」
ヒカリンは男の作業服にしがみ付いてそう言った。
「それは駄目だぁ。ぎゃはははははははははははっ」
「ひぃいいっ」
突然喋るクワガタにヒカリンは腰を抜かす。
「クガマル、人前で喋るのは……」
「構わねぇさ。コイツはもう死ぬ運命だ。どうしてそうなるか、わかるだろぉ? なあ? ジュンシローよぉ」
「そうかな?」
「そうさ。そうなる」
「な、なあ、お願い、助けて」
カタリ、カタリ。
どこかで鳴り響く小さな金属音。
男とクワガタはピタリとその声を止めた。
「来た」
男の耳元でそっと呟くクワガタロボ。男は小さく頷く。
「え? え? 来たって? え?」
「上だ」
クワガタがそう言う瞬間に、男は素早くヒカリンの襟首を掴んで投げる。男自身もその場から退くと、それと同時に上から何か巨体が降下してきた。
男の側頭部から照射される強力なライトが、そのものの姿を明らかにする。
見た目はゴキブリ、ただし体高が高く、筒の様な胴体はコオロギにも見えた。そしてその大きさ、それは控えめに言っても牛くらいの大きさがあるのは間違いない。
これが、ヒカリンを追ってたものの正体だ。
「うぎゃああああああっ」
「ゴキゲーターの成虫だな。よし殺せ、ジュンシロー」
「いや……」
男は腰に携えた拳銃を素早く抜き取り、それをゴキブリの顔面に向かって発砲した。
地下工場内に射撃音が鳴り響く。
弾丸を複眼に数発受けるゴキブリ。
ゴキブリはその驚きで、瞬時に後ろに飛び退いた。
「馬鹿野郎かおめぇ! こいつが銃で死ぬわきゃねぇえええだろぉがぁ」
クワガタが声を荒げる。
「何のために重てえ殺虫剤背負ってんだぁああっ、あ!?」
「君こそわかってんだろうね! 今殺虫剤を撒いたらどうなるかっ」
「ああそうともさぁ、勿論そこの男も死ぬだろうなぁああっ。だがそれがどうしたぁあああっ、コイツは死にに来てんだっ、そうだろぉ? 何にも知らずに地下五千に来た時点で終わってんだよぉおおおっ。ぎゃはははははははっ」
「でもまだ生きてる」
「はあああああ!? 生きる意味なんてねええええだろぉおおがぁああ! 社会のルールを守れねえクズをなあ、養うだけの余力がこの国にあんのかぁあああ!? え!? どうなんだあああああっ! ジュンシローよぉ!」
「ちょっと騒がしいんじゃないかい!? クガマルさんやぁ!?」
「ぎゃははははははははっ」
「もう、いいから手伝ってよ」
体勢を立て直すゴキブリ。男は更に数発の弾丸をゴキブリの節足に撃ち込んだ。その衝撃で前脚の棘が幾らか散って飛んだが、足にはほとんど効いてなさそうだ。
「どーすんだ」
「逃げる」
次の瞬間、男はヒカリンの体を抱えると、ゴキブリに背を向けて走り出した。
「援護~」
「ッチ、面倒くせぇええなああ、この野郎がっ」
男に飛び掛かるゴキブリに、正面から迎え撃つクワガタロボット。
クワガタロボットはゴキブリの顔面に体当たりすると、次の瞬間にそのペンチのような大顎で、ゴキブリの触覚を根元からバチンと切り落とした。
しかし、その攻撃にもゴキブリは全く怯む気配を見せず猛進する。
ヒカリンを背負って走る男。クワガタロボットもそれに合流すると、ヒカリンの体に取り付き、羽ばたくパワーにて運搬を援助した。
「コイツを捨てろジュンシロー。それで全ては解決する」
「そうはしないさ、きっと助かるよ」
男は息を切らしながら答えた。
「言っておくがなぁ、ゴキゲーターを甘く見んなよ。確かに殺虫剤が効く相手だが、生身の人間が到底勝てる生き物じゃねえ」
「ははは、久しぶりに君の口から真面目なアドバイスを聞いた気がするよ」
「馬鹿言ってんじゃねえ。おめえも死ぬぞ」
「それはまだ嫌だなぁ」
階段を駆け上がり、右へ左へと全力疾走する男とクワガタ。
ゴキブリは足を鳴らして高速で移動、既に後方間近に差し迫っている。
しかし、次の直角左進路で男の前に現れたのは大型バイクだ。道をわかって走ってみると、スタート地点は案外近い。
クワガタは一旦ヒカリンから離れ、再び突進攻撃をゴキブリに食らわす、そしてその隙に男はヒカリンをバイクの荷台に投げ飛ばし、自身も跨りエンジンスタート。
クワガタが追い付くその瞬間に男はスロットルを全開、ゴキブリが襲いかかる間一髪でバイクは工場を飛び出した。
工場を抜け、地下道を疾走。しかしゴキブリは追撃をやめる気は無いようで、先ほどよりも速度を増して追いかけた。
「おい、どーするつもりだ。これじゃ埒があかねえぞジュンシロー」
地下道を走り抜けるバイクの上。その荷台の上で、クワガタはヒカリンが転落しないように押さえつけてながら言った。
「一応考えはあるよ」
「どんなだ?」
「上に行く」
「あああああ!? 上なんてねえだろ! おめえは一般居住区にゴキゲーターを連れ出す気か!」
「いやいやまさか。でも、もう一層くらいは上あるでしょ」
「そうだが……」
「じゃあいいね。まあしっかり押さえておいてよ、ヒカ何とかさんが落ちないようにさ」
何度かカーブを曲がった後にやってくるのは、上の方へと抜けていく螺旋道路。バイクは車体を大きく傾けて、その螺旋坂道を走って昇る。
荷台の上に積まれたヒカリンは、その飛び出た頭部がバイクの傾きで地面すれすれまでに晒されたが、どうにかクワガタが引っ張り上げたお陰で、彼の頭皮が抉れるのは免れた。
そして地下道は上階へ。
先程クワガタロボットが言った通り、これ以上の上にはもう逃げれない。
「中日本特殺一〇一から公安隊中部指令。中日本特殺一〇一から公安隊中部指令……」
男は車載の無線機を手に取って、そのマイク部分を口に当てた。
――……、こちら公安隊中部指令。中日本特殺一〇一、どうぞ。
呼び出しから数秒後、無線機のスピーカーに音が入る。ここまで上に来てしまえば、ノイズもほとんど入らない。
「先ほどの一般人侵入の件について、出動車両の現在地おくってください、どーぞ」
「そーいうことかよ、ジュンシローさんよぉ」
後ろでクワガタが言った。
「ってなわけで頼むよ、クガマル」
――え~現在、出動隊にあっては……。
男は無線が入ってくる音に耳を澄ませる。
が、しかし音声が入って来るのと同時に、地下道にはどこからかサイレン音が響き渡る、重なった音に無線の声は聞き取れない。だが、それもどうやら必要がなくなったようだ。
前方数百メートル。赤の回転灯を回す公安隊の巡視車両が複数台現れた。
「しめた」
男は無線の送信機をハンドルに戻すと、次にバイク搭載のスピーカーマイクを手に取った。
「ゴキゲーター接近中。ゴキゲーター接近中です。全車両停止してください」
前方から接近する巡視車両は、最初何事かと一旦速度を緩めたが、そのバイク後方より接近する巨大ゴキブリの姿に気付いた瞬間、それの意味を理解したようだった。
勢いよく正面から合流する公安隊巡視車両と地下衛生管理局のバイク。
巡視車は急ブレーキを踏み込んで、タイヤを鳴らしながら急停車。乗車していた職員は皆、開いたドアを盾にしながら、即座に小銃を構えた。
そして狙いを定めて一斉射撃。鉛玉の礫が巨大ゴキブリの体表面を抉っていく。巨大ゴキブリは蜂の巣に、体の破片があちらこちらに飛び散った
だがしかし、どんなに弾に当たろうともゴキブリは全く勢いが衰えない。公安の職員らは、これでもかと次々に弾を撃ち込むが、その効果は無きに等しい。
地衛局のバイクが巡視車付近まで到達する。
バイクは後輪を振り回しながら、荒々しくその場に停車した。
「全員車内に隠れて!」
バイクに乗った男は、クワガタ虫ロボットの力を借りて荷台に乗せたヒカリンを近くの職員に預ける。そしてすぐさまゴキブリの方へと向き直った。
公安の職員たちは次に起こる行動を察し、みな慌てて車の中に飛び込んだ。男は横目でそれを確認。連れて来たチューバーも車の中に収容されている。
そして、猛進してくる巨大ゴキブリ。しかし、鉛玉を全身で受け止めてたことで、ほんの僅かに速力が落ちているだろうか。
男は、拳銃とは別の、ライフル型の金属器具を両手に構える。
その器具の根元より、太い導管で繋がった先にはMEGAーKILLERと書かれた黄色のボンベがある。
足を前後に開いて、男は金属器具こと、その放射ノズル先端をゴキブリに向けた。
もう目の前まで接近しているゴキブリ。
男は放射器具の引き金を引き込んだ。
するとその瞬間に、前方辺り一面に噴き出す白い霧。その霧はたちまちゴキブリを取り囲む。そして、そこからゴキブリが走り続けて、こちらに飛び掛かってくることは無かった。
白い濃霧のなかでゴキブリは一体どうなってしまっているのか。その様子は全く確認できないが、男は少なくとも三十秒程は白い霧を放射し続けた。
そしてようやく止まる薬剤放射。公安の職員たちは、みな車両の中で息を潜めてその光景を見守る。
やがて霧は消え去った。
現れるゴキブリの体。
六本の足は完全に上向きで縮こまり、羽の生えた背側を地面と接する体勢だ。
足の先端が僅かに震え、ぴくぴくと痙攣している。そして近づき胴体を蹴る男。反応がない。
男はくるりとゴキブリに背を向けると、すたすたとバイクの方まで戻っていく。
「中日本特殺一〇一から中部指令」
――中日本特殺一〇一どうぞ
「要件終了につき無線閉局」
――了解
「以上、中日本特殺一〇一」
* * *
西に向かって走る車は、黒いボディの軽トラック。暮れ行く太陽を真っ直ぐ目指し、赤く染まった日暮れの街を、のんびりガタガタ走り去る。
右肘を窓枠にぶらりと引っ掛けて、片手でいい加減に握ったハンドル。運転者は先ほどの男だった。
男は作業服からジーパンTシャツに着替えているが、側頭部のアクションカメラはそのままに。
ここはいつもの帰り道。と言っても、ほぼ一週間ぶりの帰宅となるが、この時間に下り車線が混み合うのは相変わらずだった。
車のラジオから流れるゼロ年代のヒット曲。ハンドルに乗せた指先は軽くリズムに乗っていた。
助手席に大量に積まれた野営のは荷物だ。クワガタムシ型ロボットは、ちょこんとその上に乗っかって、ぼさっと景色を眺めていた。
地上はいい。
風が太陽を運び、匂いと光とそして音、自然と体があったまる。何もせず、ただそこにいるだけのことが、これ以上にない贅沢だと思えるのだ。
「結局収穫はゼロだったな。既知の害虫が四匹いただけだ」
隣に座ってるクワガタが言った。
「四匹? ゴキゲーターは最後に見つけた一匹だけじゃない?」
「もう3匹虫がいただろうがよ」
「まさかあの人達のこと言ってるの?」
「それ以外何があるってんだ。人間なんて害虫みてえなもんだろ? だから最後の男もゴキブリと一緒にブチ殺しとけば良かったのさ。助かるとか助からないの問題じゃねえ」
「君みたいな邪悪なドローン。量産されたら人間は絶滅するだろうね」
「いいんじゃねえか? いっぺん絶滅しろよ」
「いやしないよ。少なくとも自主的には」
「なぁジュンシローよお、お前実際のとこどう思ってんだ。お前にとって人の命ってなんだ? そんなに尊いのか? 尊くねえだろ? ゴミだぞゴミ。何の価値もありゃしねえ」
「クガマルよ」
「んあ?」
男は少し間を置いた後、遠くを眺めて口を開く。
「今夜の晩飯は何だろうな」
「はあ? なんだそれ」
「いや、別に。たださっきの人も、そうやって思うこともあるんだろうなと思ってさ」
「意味わかんねぇぞお前」
「あぁ、なんか急にバイク乗りたくなってきた、よし週末乗ろう」
「藪から棒もいい加減にしとけ。お前遂に頭がおかしくなったか」
「頭なら既におかしいよ」
「あぁ、そりゃ失礼した。確かにお前は頭がおかしいな。そうさ、お前は頭がおかしい野郎なんだ」
「あれ、否定されるかと思いきや、心外だよ」
「でもまぁ」
「?」
「そういうことさ」






