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地底の夜空 ーⅡ


 それからというもの一体どのくらい寝ていたのだろうか。

 何度も夢を繰り返し、その内容は覚えていない。昔のことを見ていたような気もするし、ゴキブリからひたすら逃げていたような気もする。

 いずれそれらが夢だと気づき、そして薄っすらと目を開ける。

 外は暗い。

 真夜中の星空の下、どうやらここで寝てしまっていたらしい。

 だが、一体なぜこんな場所で……。

 そうか、地上じゃなかった。

 プラネタリウムの中、脱出の最中。ここはまだ地底なのだ。

 徐々に意識がはっきりと戻ってきた。

 あれからどのくらい時間が経ったのか。クガマルが起こさないという事は、まだ三時間は経っていないのだろう。生憎時計は持っていない。時間など普段はスマートフォンで確認しているが、やはりこういうとき腕時計が欲しくなる。地上に戻ったら早速買うか。いや、その前に公安隊に捕まるんだった。

 もう少し寝ていよう。

 三時間は寝ていいと言われているのだし。丁度いい具合に景色も綺麗だ。

 この夜空はずっと見ていても全く飽きはしない。

 確かあれが、そう、シリウスとベテルギウスと、それと何だったか、忘れた。だが、その一等星三つで冬の大三角というはずだ。えっと、そうそう、プロキオンだ。

 寝付く前までは、東の空低い場所にそれらがあった。で、今はというと大体南西くらいか。

 当たり前の事だが、こうして天体が回っていることにちょっとした感動を覚える。ましてや人工の夜空なのだからどのようにでもできるが、それでも地球が回っていて、夜があって朝が来るんだなと。

 そう言えば、これは何月の空なのだろう。

 冬の大三角が向こうのほうから、反対の空へと、一晩でぐるりと移動した。

 まぁ、冬の空なのかな。よくわからないが。

 一晩でぐるりと。 

 一晩で。

 おや。

 いやいや、まだ三時間経っていないのだから、まだ一晩じゃあない。

 たしか一時間あたりの天球の動きは、えっと、何度だった?

 太陽の動きを考えればいいだろう。あれはざっくりと十二時間で東から出て西に沈む。つまり、東にあった三角が今南西にあるということは……。三時間、以上?

 ボス、起こすの忘れてる?

 そんな訳ないか。ここはプラネタリウム、天球の回る速度なんて好きなようにいじれる。深く考える必要はないんだ。

 二度寝するまで、ぼーとして、星の名前でも思い出していよう。

 さて、次の一等星を見つけよう。双子座のポルックス、これはプロキオンのすぐ上に……。

 ……待って。

 いまプロキオンが動いた。

 だが、いわゆるそういう動きではない。

 地球の自転に伴う規則的な天体の動きではなく、ぐにゃりと一瞬その位置がおかしくなるような奇妙な動きだ。

 不思議に思い、他の天体も注意深く観察した。

 奇妙な動きをみせる星々が所々に見受けられた。やはりそれらも自転による動きではなく、まるで空間が歪んだような気持ち悪い動きだった。

 そういう仕掛けのあるプラネタリウムなのだろうか、いや、どういう仕掛けだ。聞いた事が無い。

 不審がって座席を立ち上がる。

 何かがおかしい。


 すると、次の瞬間だ。

 突如響き渡る大きな音。がしゃんがらがら、と。

 ホール中央付近で何かが壊れた。

 それと同時に、いきなり高速で回転する天体。星々はぐるりぐるりと天を駆けまわり、そしてぴたりと停止した。

 またそれに続くよう、ぷつりと全てが闇に帰る。

「なななっ、何!?」

 投影機が破壊された。

 眠っていた心臓が、突然の出来事に爆発する。

 寝ぼけていた頭もいっぺんに目覚めた。

 脈打つ全身。

 危険が迫っている。

 慌ててカバンの中から重たいサーチライトを取り出した。

 真っ暗闇のドームの中、それを中央の投影機に向かって照射。

 そこに照らす場所には、本来の設置場所から転げた機械が。それは床上に倒れ横になっており、その機械の周囲には何やら怪しいものがもぞもぞと動いている。

 触覚をふよふよと動かして、六本の足でその周囲を這いまわった。

 ゴキブリだ。

 大きさにしてクガマルより少し大きい程度。例の巨大ゴキブリ、ゴキゲーターとはサイズ的には異なる。

 小さな、と言っても犬くらいはあるだろうが、そのゴキブリ達が投影機に二匹ほどくっ付いている。

「んぅうっ」

 一瞬大声が出そうになるのを何とか堪えることが出来た。

 何度見てもゴキブリや蚊には慣れないが、それでもここで声を上げてはまずい。それはいい加減理解した。

 冷静に、そして素早く行動することが重要だ。

 隣の席に置いた殺虫剤のボンベを背負い、防護マスクを装着。

 震える指先が、バンドを引っ張るのに時間をかけさせた。 

 一旦大きく息を吸い込んで落ち着かせる。

 少し大げさくらいにゆっくりと固定バンドを締めた。大丈夫、ちゃんとできる。

「ボ、ボス、起きて。ゴキブリが」

 そして次に、停止しているクガマルを小声で起こす。

 が、ここで一つの異状に気が付いた。

 クガマルの充電ランプが光っていない。

 完全に沈黙したクガマルは暗く、体のどこの部分も光らせていない。

 その良くない予感に背中が寒くなった。

「ボ、ボス! 起きて! ボス起きて!」

 クガマルを持ち上げて小声で叫ぶも、やはり沈黙を保ったまま何も反応を示さなかった。

「ボス……」

 今まで感じていた違和感。

 それらは決して勘違いではなかったのだ。

 冬の大三角が大きく移動するまで目が覚めなかったのも、要はそういうことである。

 慌ててクガマルを座席に置いて、ライフル状の放射ノズルを両手にとったが、その拍子に一旦座席置いてあったサーチライトが床に落下。ライトの光は天井を照らした。

 青白く映し出されるドームの天井。

 一匹、二匹、三匹、四匹……、いやもっと沢山だ。

 多数のゴキブリ達が天井を這いまわっていた。


「ぬぅわああああああああ!」

 その光景に我慢ならず思わず声を上げてしまうが、幸い防護マスクに遮断されて、そこまでの絶叫には至らなかった。

 しかしその瞬間に、そのゴキブリ達の触覚の動きはピタリと一斉に停止し、それはこちらの方に向けられた。

「くたばれええええ!」

 メガキラー、放射開始。

 白い噴霧の薬剤放射を、天井に向かって掃くように振りかける。

 そうすると、ぼたりぼたりと天井から大量のゴキブリ達が死体となって落下した。まるでそれは雨かというばかりに床の方へと降り注ぐ。だが雨と言うにはいささか以上に大粒だ。

「それっ、そうりゃあああ!」

 しばらく上の方ばかりを集中的に殲滅。中には一匹、顔面めがけて降ってきた個体もあったが、叫びつつもぎりぎりの距離でこれを回避。あんなものに当たろうものなら、気持ち悪い以上に、その質量でこちらの首がどうかなってしまうだろう。

 と、その時感じる足の違和感。

 もそもそと、痛痒いような感触だ。

 そこから伝う凍りつくような全身の寒気、慌ててこれに飛び退いた。

 付近の床を這いまわるゴキブリが数匹、こちらに向かって這い寄ってくる。

 近くでみれば、どれもこれも羽の生えていない個体ばかりだ。しかしそんな事は関係ない。羽があろうとなかろうと、殺虫すべきゴキブリには変わりないのだ。

 そう言うわけで床の方にもメガキラーを散布する。

 当たり前だが、これによる効果は絶大だ。相手のサイズが小さい事もあり、少しでも噴霧が触れればあっと言う間にひっくりかえっていった。

 問題なのは、こいつらミニゴキブリが一体何匹いるのかという事。

 もうかれこれ五分ほどは放射しているが、一向にこれらの数が減る気配はなかった。

 見上げれば何匹ものゴキブリが天井を這いまわっており、下を見てもまた大量のゴキブリが座席の下を潜って押し寄せてきた。

 特に床を這ってくるのが厄介だ。少しでも仕損じることがあれば、たちまちミニゴキブリの波にのまれてしまう。しかし、かといって床のゴキブリばかりに集中していると、上の方がなんだかとんでもない状況になってしまっている。

 いや待て。

 さっきから増えていないだろうか。

 先ほど見上げた天井は十数匹が動きまわっている程度だったが、今はどうだ、白いドームがゴキブリで黒くなっている。

 どこかは不明だが、どこかから湧いてきているに違いない。

 このまま位置を移動せずに、ひたすら殺虫剤をかけるだけでは、いずれ取り返しがつかなくなるだろう。敵が押し寄せてくる方向は三百六十度以上、すなわち上部を含んで立体的に囲まれている

 適当に薬を撒いておけばその内全滅するなんて、そんな考えは甘かった。

 殺す数より、増える数の方が若干多い。

 弾幕ならぬ殺虫剤幕は、気付けばどんどん後退し、頻繁に振り向いて円形に倒していかなければ、迫りくるゴキブリにあっという間に飲まれてしまう。

 まずい。いや、本当にまずい。

 そう思った今頃には、退路を完全に断たれていた。

 そして次の瞬間、上空より一匹のゴキブリがすたりと足元に落下した。

 まだ死んでいない元気なゴキブリだ。

 牙を大きく開いてこちらに向かう。

 反射的に繰り出されるキック。幸い、いい具合にこれを蹴り飛ばすことが出来た。

 しかし、上空からの攻撃がこれ以上に続くと、もう対応するのは難しい。

 逃げるのならば今が最後のチャンスだろう。

 放射ノズルを片手で持った。 

 出口にあっては天球で示すところの北側非常口が最短距離にあるとみえる。

 心の中で三つ数えるタイミング。

 いち、……にの、……さん。

 この瞬間に一気に駆けだす。片腕にはクガマルをもう片腕には放射ノズルを。

 前方より迫り来るミニゴキブリ達に薬剤放射を集中し、やり損ねた個体はそのまま踏みつけ、出口に向かって全力で走った。

 北側非常口まで残りあと二十メートル程。

 上から降って来るゴキブリを払いのけ、ただ無我夢中に前進した。

 いける。

 迫る扉は僅か十メートル前方。

 残された問題は、ふさがった両手で如何に扉を開くかということのみだ。

 蹴破ることが可能ならば幸いだ。しかし扉はどう見ても金属製、錆びてでもしていたら、もしかしたら自分の脚力でもいけるかもしれないが、それはあまりにも無謀である。

 一旦クガマルを下に置くしかないか。

 ごめんなさいと、小さくクガマルに謝った。

 しかし、その時だった。

 それが五メートルほどの距離まで来たときに、運良く扉が横に吹き飛んだ。

 運良く?

 なぜ扉が急に、勝手に吹き飛ぶことが起こるのだろう。

 その答えは目の前に。

 目の前には、立ちはだかるのは巨大なゴキブリが一体。

 ゴキゲーターが現れた。

 それは周囲に湧いているミニゴキブリなどではない。体長二、三メートルほどあるフルサイズのゴキゲーターだ。

 大きな顎をガチガチと鳴らし、のっそりと扉から頭をのぞかせた。

 考えるよりも先に体が動く。

 気が付けば、そいつに向かって思い切りメガキラーを撃っていた。

 約十秒ほど薬剤を吹き付ける。

 これでどうだと一瞬放射を停止させ、その効果のほどを確認。

 甘い見積もりだった。ゴキゲーターは健在、その巨体はゆっくりとこちらに迫った。

 後ずさる。その足元にミニゴキブリを踏む感触を得た。

 慌てて自身の周辺にメガキラーを散布するが、その間にもフルサイズのゴキゲーターは接近する。

 しかし少しは弱っているのかゴキゲーターの動きはあまり速くないようだ。

 もう一吹きで片付くか。

 とそう思ったまた次の瞬間である。

 大きな音を立てて扉が吹き飛ぶ衝撃音。

 音の方を見る、二体目のゴキゲーターだ。

 そいつは既に西非常出口から半身を出して触覚を振り回して内部を伺っている状態だ。

 すかさずそちらにメガキラーを放射した。

 その二体目に突撃される前に先手をうつ。

 同時に周囲のミニゴキブリにも警戒し、ノズルを交互に忙しなく動かした。

 まもなく二体目のゴキゲーターは背中を床向きに転がった。絶命。

 西側出口に退路が開かれた。

 よし。

 と、思えたのは束の間の安心。

 聞きなれないベル音が、自身の胸のあたりに大変けたたましく鳴り響いた。

 一体何事かと自分の体を見下ろすと、鳴っているそれは残圧計と一体になった警報ベルだ。

 残圧計に針が指す目盛りは、間もなくボンベの薬剤がなくなる事を示している。

 あとどのくらい放射が可能であるか、それは全く見当もつかないが、現状において放射を止めるわけにはいかなかった。

 ノズルの放射レバーに込める力を抜いた瞬間に、周囲を囲むミニゴキブリの群れにのまれることは想像に容易い。

 そして前方から接近してくるのは、先ほど弱らせた一体目のゴキゲーター。

 その個体に向かって再び放射を実施した。

 警報ベル音はその間も常にも鳴り続ける。

 あと何秒で目の前のこれを殺せるのか。十秒、二十秒。

 ノズルから噴き出す薬剤の霧。

 そして遂に、レバーを握っている状態にも関わらず、放射はぷつりと前触れなく止まった。それと同時に警報ベルの音も停止する。

 残圧はゼロ。メガキラーを使いきったのだ。

 眼前を覆っていた薬剤の濃霧。ふわりと自然に消え、徐々に視界は回復していく……。

 

 現れる、ゴキゲーターの姿。

 それは……。

 ひっくり返っている。

 命が繋がった。

 走り出す。死骸を避け、北側出入り口から転げ出た。


 ドームの脱出に成功。

 非常口の向こうは狭い通路が左右に伸びた。

 天文館の出口はどちらだったか。

 右か。

 右を見る。

 ゴキゲーターを発見。

 左だ。

 左を見る。

 ゴキゲーターを発見。

 何がまずかったと言えば、殺虫剤の適切な放射時間が身についていなかったことかもしれない。しかしそれ以上の問題として、この警報装置、何の流用品か知らないが現場の使い勝手は全く無視。こんな場所でそんな音を鳴らそうものならどうなるか、虫が寄って来るだけに決まっている。

 とにかく、脱出経路が完全に断たれた。

 考える余地はない。

 逃げ込む先は再びプラネタリウム内。

 もはやプラネタリウムだけではなく、この天文館自体が既にゴキブリに制圧されているのだ。

 プラネタリウム内にあってはミニゴキブリの巣窟だ。そして外にはフルサイズのゴキゲーター。

 プラネタリウムの方に人が逃げ込んだ気配に気が付くと、ゴキゲーターは二体ともそれに向かった。

 そしてそれよりも早く囲みにかかるのは、無数のミニゴキブリ達である。

 瞬間的に肩から外したボンベを振り回すが、その攻撃は無意味に等しい。

 そしてゴキゲーターに向け、思いきりボンベを投げ飛ばした。

 無論効果はない。


 終わるのか。

 もはや助けを叫ぶ行為すら頭の中に思いつかない。

 むしろ申し訳がなかった。

 何に対して?

 片腕に抱えるクガマル。

 こんなピンチにも、いつもの乱暴な口調で喋り、そして動き出すことは無かった。

 その原因が故障なのかバッテリー切れなのかはわからない。

 ただ最後に、この親切なドローンが再び正常に起動することを祈った。どうかクガマルだけでも無事で。これが、地底に残った彼を救う最後の希望なのだ。

 あらゆる方向から大量の虫たちが向かってくる。

 その場に小さくしゃがみ、そのドローンを守るように胸に抱えた。

 

 両目を瞑る。

 最期の瞬間に備えた。


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