オムライス
目を閉じれば、いつだって思い出せる場所がある。
たとえ地底であろうと、地球の裏側、月面、銀河の彼方、いつだって帰る場所はそこにただ一つしかない。今日も明日も、いつか遠い未来であっても変わらない。
あの人の隣に。
いつだったかの思い出話。
スマートフォンの画像フォルダには沢山の写真が入っていた。そのほとんどは、自分の知らない過去のものだ。けれど少ないながらに、もう知っている頃の写真もある。
二人で過ごした四年間、短いけれどそれが今ある記憶の全部だ。兄と妹と、他人からスタートした共同生活。
叔母の家に居候する以前には二人で狭いアパートに暮らしていたこともあった。
湿っぽい地下のアパート。日の当たる地表に比べれば劣るものの、都市の中層程度ともなれば人並みの生活は保証される。空調の効きは十分で地熱で熱いことも無ければ、廃棄物の悪臭が滞留することもない。贅沢を望まなければ地下四千メートルの生活は十分に快適と言えた。
「ただいま~」
兄、潤史朗が帰宅する時は、手には必ずビニール袋を提げていた。
中身は決まっていつもの二点、カップラーメンとコーラだ。近所のスーパーで買うらしい。 そして部屋はひどいものだった。
カップラーメンの空いた容器が山となって積まれている。本人曰くコレクションだそうだが、これに割り箸が刺さっていることはどう説明するつもりだろう。
正直勝手にしてくれという感じもあった。昼間はバイトで、お互い家にいる時間はあまりない。ただそれでも寝るためには帰宅するわけで、このラーメン臭が全く気にならないかと言われれば、断じてそう言うわけではない。
ただ、ついこの前から兄妹を始めた他人に対して「片付けて」といきなり飛ばすのもどうなのだろうと思うわけだ。
「またラーメン?」
「マイソウルフード」
「飽きない?」
「ソウルフードだからね」
「そう……」
そう言って兄は自分の部屋に。
恐らく職場でも同じものを食べているだろう。
兄の部屋から聞こえてくる音は、ラーメンを啜る音と、そしてパソコンのキーボードを叩く音のみ。明日の朝も早いため私は先に布団に入る。
そして翌朝、騒々しい目覚まし時計のベルに起こされると、兄は既に隣の部屋にいなかった。もちろんトイレや風呂にも台所にもいない、兄の朝が早いのもいつもの日常だった。
「ただいま~」
「おかえりなさい」
「またカップ麺?」
「無論」
「ねえ」
「ん?」
「もしかして朝もカップ麺食べてる?」
「いいや何も」
「そう、何か作ろうか?」
「いや、いいよ。朝は何も入らないし、入るならラーメン食う」
「そう……」
そんな兄の顔は、私の勘違いだろうか、日に日に小皺が増えていた。目の下も色がくすんでいる。
「ただいま~」
「おかえりなさい」
また帰ってきた兄、いつもどおりだった。
そんな日々がしばらく続いていた。
私はまだフリーターで兄は今年から地衛局員だ
お互いお金は少ないが、財布は別々で家賃だけは兄が少し多めに分担する。地下のボロアパートで二人暮らしするを分には特に困るようなことはなかった。強いて言うならば、私は来年から大学に行くため、そのための費用を貯めておきたいくらいだ。
だが、国家公務員である兄が、服や物にこだわらず慎ましく暮らしているのはどこか怪しい。
「ねぇ、まさか学費を肩代わりしようとか思ってないよね? ジュン」
「え?」
ラーメンを啜る兄の手がぴたりと止まった。
「なに? ごめん聞こえなかったよ妹よ」
「実は宝くじで一千万当たったの」
「え! ほんと? っよっしゃぁあああ! ってそれほんと? ねえホント? 嘘ついてないよね? 夏子さんや」
「もし嘘じゃなかったとして、なんでジュンが喜ぶの?」
「え……」
「自分の通帳のお金に余裕が出来る?」
「あ、いや、……」
「もちろん嘘だよ、宝くじなんて。そんなの当たるわけ無いじゃん」
「……」
「私、大学行く気でいるけど、自分のお金で行けないなら行かないし、そもそも貯まってからいけばいいんだし」
「お、おう。そうだな。前も確かそう言ってたし、べ、別にあのお金は、そそ、そういうのじゃないぞ!」
「じゃあ何」
「ああ、えっと、バイクを買うんだ! そう、凄くいいい奴をな!」
「それじゃ早く買えば?」
「それが凄くいい奴だからな、まだまだなのさ」
「ふーん」
「っていうか通帳見たの?」
「いや見てないよ」
「そ、そうか」
公務員一年目の給料がいくらかなんて調べれば大体わかる。それも踏まえて、やはりそうだったかと今のやりとりで納得した。
私服がTシャツとジーパン一着づつしかないのは変だし、部屋にラーメンとパソコンしか無いのは異常だ。学費の話はありがたいとは思う、けれど頼るわけにはいかないし、何よりも甘えたくはなかったのだ。兄だからという気持ちから彼はそうしようと思っていたのだろうか。しかし血縁がどうであれお互いに記憶喪失で数ヶ月前に知り合った関係を果たしてそう呼べるのか。
そういう意味で私は私のことは出来るだけ自分でしたいし、何より彼の人生を私が邪魔をしたくない。今の共同生活もお互いに余裕ができたのなら、やはりこれもやめるべきだろう。 兄妹なんて関係は私たちにとっては所詮、形骸的なものに過ぎないのだから……。
そんなある日のことである。
珍しく私のアルバイトは休み。溜まった普段の疲れもあり、お昼近くまで起きることは無かった。
冷蔵庫には食パン。コーヒーにミルクを注いで温める。食パンの上にはマーガリンと苺のジャムを薄くぬった。朝というには遅すぎる朝食だ。
そしてカーテンを開け、窓から気持ちの良い太陽が、と言うわけにはいかない。これが唯一地下生活の不満なところだ。それ以外の要素なら地下コロニーとして地表に比べて快適性はさほど変わらないのだが、太陽の光をはじめ、やはり窓の外に空が広がっていないという事実は、たかがそれだけでも大きな減点なのだろう。
だからお金がある人はみんな地表に家を持つ。
そしてまた、彼らが地表を目指すその訳は決して景色の良いところで暮らしたいというだけではない。しかし私はまだこの時、その理由について未だ実感を得ていなかったのである。
不意に玄関から音がした。
まだ兄が帰宅するには早すぎる。
私は食べかけたパンをお皿に置き、ゆっくりと玄関の方を見に行った。
壁に身を寄せ、顔だけそっと覗かせた。するとどうだろう。玄関のノブが激しく首を振りまわし、そして次の瞬間、施錠されているはずのドアが勢いよく開いた。
現れたのは男、坊主頭で黒いタンクトップ、横幅の大きな体には濃い胸毛が相当目立った。そして、右手に拳銃がみえる。
知らない人間だ。
即座に自分の部屋に駆け込み戸を閉めた。
空き巣? 強盗? わからない。ただわかるのは知らない男が銃を持って突然家に上がりこんできたという事だけだ。
自室の戸に背中を預けてしゃがみ込む。
できるだけ静かに、ここに人がいることを悟られてはいけない。
しかしいくら堪えようと思っても、息は益々大きく、速く、どうやったって静まらない。
うるさい音は胸からもする。どくどくばくばくと外に漏れそうなくらい体を叩いた。
兄がもしもの時のためと置いていった拳銃を手に掴んだ。
この戸が開けられた瞬間に撃つ。
「女の一人暮らしってんだから、ブランドのバッグとかねえのかよぉ」
「つうかよ、留守じゃねえ方がよかったんじゃねぇの?」
戸の向こうからは男の声。
まずい、声からして入ってきたのは二人いる。この銃で一人は何とか出来たとしても、もう一人にやられる。
せめてこの部屋を開けられないことを祈るばかりだ。
「うぇへへへっ、確かにそうだな。空き巣なんてつまんねえ事じゃなくて、居てくれた方が良かったなぁ」
「どうする? 帰って来るまで待つ? ここで」
「うぇへへ、でもブスだったらどーすんの?」
「それはねえ、見張ってたんだ。すげー美人だったぜ多分な」
「うぇへへへへ。まじぃ? うぇへへへ」
「あ、ちょっと待て」
「うぇ?」
「パンが置いてある。食いかけみてえだ」
顔から熱が引いていくのがわかった。
胸が詰まる程に呼吸が苦しくなる。
両手で握りしめる拳銃は、その先端がとても大きく震えていた。
「うぇへへ。えへへへ。へへへ、出ておいでぇ~子猫ちゃぁ~ん、怖くないよぉ~、優しくするからさぁ。うぇへへへ」
一歩、また一歩と床が軋む音が近づいた。
撃て、もしかしたら二人目は銃をもっていないかもしれない。今はそれに掛けるしかない。
「うぇへへへ」
そして、いざ扉を開けて銃を撃とうとした。
その寸前であった。
玄関が勢いよく開かれる音が響いた。
「な、なんだテメエ!」
続く銃声。
「な、どういうこったテメエ!」
「夏子!」
兄の叫ぶ声がした。
「その戸を絶対に開けるな。僕がいいと言うまでそこに居て」
「テ、テメエ何言ってやがる!」
またしても銃声がした。しかし、兄の声は続けて聞こえてくる。
「な、何をしたテメエ! 何しやがった!」
「君達二人だけ? 仲間は?」
「あ? あんだと!」
「もういい」
「あ?」
そして。
「ぃあぁあぁあぁぁあ‼」
子供の泣き声のような叫び声。つんざくように耳を貫く。銃声なんてものじゃない、張り裂けるような悲鳴である。
「な、な、なにもんだテメエ!」
もはや銃の発砲はなく、次の瞬間には窓の割れる音がした。
そして、居間は静かに、知らない男の声は無くなった。
「もういいよ夏子」
兄に言われるまま、ゆっくりと戸を開けた。
まるで台風でも来たかのような部屋だった。ちゃぶ台は吹き飛び、食パンはジャムを下向きに床に張り付いていた。
「怪我は?」
「な、ないよ」
「ごめん、怖かったね」
「大丈夫。こ、怖くは、無かった」
怖い、というより驚きと興奮で、未だ頭がぐるぐるとしてた。握りしめていた拳銃から力が抜けない。
その時、ふと目に入った。床の一部にべっとりと赤い液体が付着していた。イチゴジャムなんてものじゃない。それは……。
私がそれを凝視していると、兄は慌てて視線を遮るように入ってきた。
「あ、あははははっ、何か部屋汚れてるねぇ! よぉし掃除掃除! 夏子さんは三十分ほど自室に居なさいな」
「え、いやちょっと、ジュン」
「ほら入った入ったぁ!」
と背中を押されて半ば強引に押し込まれてしまった。
最後まで目で追っていたそれが、とても大量の血液だったのは間違いない。
地下はとても治安が悪いということが、この日身に染みてよくわかった。どうやら彼らは数日前からこの家を狙っていたようだが、変な時間帯に出入りする兄の姿は見られていないため、それで女の一人暮らしと思われたらしい。
そして兄の体には傷一つついていなかった。あの血液は彼らのものだ。私は武器などのことにはあまり詳しくないのだが、一体どうやったらあれほどの血が流れるのだろう。
「地下は危ないなぁ、やっぱり」
兄は金属の手足を外して新聞紙の上に並べる。
その小さな隙間に油を塗ったり、緩んだねじを絞めたりと。
そんな日頃の整備の最中、ぽつりと一言呟いた。
「ただいま~」
帰宅する兄の顔が先月より悪くなっている。
「コーラは?」
「ないけど?」
「なんで?」
「気分?」
「そう」
できるだけ自分のことは自分でしたい。他人のような相手に対して甘えたり、頼ったりするのは良くない、そしてそれが自分が好く思っている相手だからこそ、尚更そう思った。迷惑を掛けたくない。
しかし実際はそんなことなかった。
結局わたしはいつも兄に守られていた。アパートの隣の住人に聞くと、ここ一ヶ月ほど頭にアクションカメラをつけた男がよく徘徊していたとのことらしい、そしてなぜか夜が異様に静かになったとか。
一人でも大丈夫、なんてのは私の思い上がりで、結局は兄あっての生活だった。この前の事件も自分一人ではどうにもならなかったかもしれない。
学費がどうの、なんて大きな口を叩いた自分が恥ずかしい。
そんなある日の夜のことだった。
深夜二時ほどだっただろうか、居間から大きな音が聞こえて私は目を覚ます。
また強盗だろうかと拳銃を手に自室を静かに出たが、流石に今回は違った。
居間には、畳の上に倒れる兄の姿だ。
「ジュン!」
兄が倒れていた。
三十八度二分。
発熱する兄を介抱する。
布団に寝かせ、冷たいタオルを額に載せた。火照った顔、苦しそうな表情で時々呻く。
「なんで夜中に外に行こうとしてたの?」
「コ、コーラを……」
「財布も持たずに?」
「……」
「バイト、してるよね?」
「……」
「最近深夜のバイト、始めたね」
「は、はい」
「なんで」
「い、いや」
「言ったよね私、学費はいいって」
「それはわかってるさ」
「じゃあ何で?」
「い、いや」
「それと、この際だから聞くけど」
「な、なんでしょう」
「地衛局って仕事終わるの遅いの?」
「え……」
「始業は何時?」
「……」
「なんでカップ麺しか食べてないの?」
「カップ麺が好きだから!」
「あ、そう」
台所でコンロに火をつけた。
米は十分にある。それと適当に冷蔵庫の中のものを入れて煮れば何となく食べやすいものが出来るだろう。
実は、兄は体調を崩しやすいのだと知った。義腕義足であるため相対的に生体の容積は小さく、細菌の感染や食事の偏りは体に反映されやすいようだ。と、直接聞いた訳では無いが多分そうだ。
鍋の蓋がこつこつと音を立てる中、兄は言った。
「ごめん」
「何が?」
「お察しのとおりバイトしてました」
「地衛局ってバイトしていいの?」
「それは問題ない」
「で、なんでバイト?」
「地表に部屋を借りれないかと……」
「……」
「……すみません」
「馬鹿だね、本当にさ」
「で、ですよね」
「でも、ありがと」
「へ?」
「ありがと、ジュン」
できたお粥を彼の元に運び、小さな器によそって移した。
「私さ、色々と頼ったら良くないと思ってた。ジュンにはジュンの人生があって、私には私の人生があるんだから、だからジュンの足引っ張っちゃ駄目だろうって。自立しなきゃってさ」
「いや、そんなこと」
「でも実際はそんなこと全然なかったんだね。私はずっとジュンに守られてた。この前気が付いたよ。ありがと、今までずっと」
「そんなの兄だから当然」
「それじゃあさ、ジュンも私を頼ってよ」
「?」
「私さ、ジュンの、潤史朗の妹だよ?」
「お、おう」
「もっと私に頼ってよ、妹に頼って。私ジュンの妹なんだから」
「お、おん。しかしそう言われてもな……」
「ジュンの弁当、私作る。カップ麺禁止」
「お?」
「朝食も食べて、作るから」
「おう」
「夕飯も栄養のあるものを考える。カップ麺はなし」
「お、お?」
「なに変な顔してるの?」
「いや、いやいや待て待てカップ麺禁止って、いや妹よ、兄を殺す気なのかい? 君は」
「は? その栄養の偏りで倒れたんでしょ。違うとは言わせないけど」
「う、いや、ソウルフード……」
「そんなにコストカットしないで。ジュンの体が心配」
「そ、そうだな。で、でもカップ麺ってのは……」
「もうカップ麺禁止だから。ジュンが私のこと妹として気にかけるなら、私がジュンの事を兄として気にかける権利がある」
「……」
「なにより、私がそうしたい」
「……わかった」
「お粥、冷めたよ。たべて」
「おう」
「はい」
「ん?」
「はい」
「え?」
「あーん」
「いや待って待って待って。夏子さん夏子さん」
「あーん」
「あの……」
「風邪引きの兄に拒否権はありません。あーん」
「……」
それから、私達は兄妹の共同生活をここから始めることにした。
そんな当たり前のことを、どうして今まで頑なに意地を張って居たのだろうとバカバカしく思う。
大事な人なのだから、気遣って、帰りを心配して、一緒のご飯を食べて、次の日起きて、見送って、見送られて、それが私たちの普通なのだ。
「ただいま~、今日の夕飯なに?」
「オムライス作った」
「よっし! オムライスきたぁ!」
「手洗ってきなよ、子供じゃないんだから」
「ははは、いや夏子の作るものは凄え旨いからなぁ」
「ほんと?」
「ほんとさ、弁当も旨かった!」
「良かった。そう言われると素直に嬉しいな」
「ああ、夏子が妹でよかった」
「ぇ……」
それは不意な、とても不意打ちな言葉だった。
私は少し返事に困る。この人はあまりにも無邪気に、そして笑顔でそう言うのだ。
「夏子?」
「いや、なんでもない」
「そうか」
「ねぇ、一つ聞くけど。ジュン」
「なに?」
「私の作るご飯、凄くおいしいんだよね」
「そうだとも」
「じゃあ何でカップ麺持ってるの?」
「あ、ああ、いや。これは何て言うんですかね? まぁ何だ、その、ミッドナイトワッショイワッショイフィーバー? 的な」
「夜食ね。まぁ、ほどほどにね」
「あざっす」
そんな潤史朗との生活はきっと素晴らしく充実していたのだろう。毎日が楽しかった。嘘じゃ無い。
それからしばらくして叔父の存在を知り、居候することを勧められて今は地表に暮らしている。
また私は大学にも通い始め、大学では友人も沢山できて。こうして全てはうまく回り始めた。
そしてこれからも、ずっとそうなのだろうと思う。
しかし一つだけ、私の中には今でも気になっていることがあった。
あの強盗がアパートに入った日、恐らくは強盗が流した大量の血、兄は一体彼らに何をしたのか。あの義腕義足、普通のものではない。
そうじゃないことを願いつつ、やはり気になる。あれは、恐ろしい武器じゃないのかと、そして兄の仕事は非常に危険な事ではないのかと。
「ただいま~」
そんな、少し間の抜けた声を私はいつも待っている。
そして今日、兄は家に帰って来なかった。
もちろん、出張などで外泊することは珍しくない。ただ彼はどんな時でも、家に帰るのが遅くなるだけの時でも必ず連絡を入れてくれた。
この手に握りしめた携帯は黙ったまま。
何度彼に電話を掛けようとも、決して繋がることはなかった。
「潤史朗……」




