エレベーター ーⅢ
「休憩もそろそろ良いだろ。壁登り再開だ」
「おーっす」
クガマルの一声で、二人は再び壁を登り始めた。
しかしその時、最初の窪みに手を掛けた瞬間に光はその手を引っ込めた。
「痛たたたっ」
「どしたの?」
「いや、あの筋肉痛が出始めてるって言うか。ちょっと休んだお陰で逆に」
「それは困ったね」
「どうしようもねえだろ。我慢できねえなら落ちろ。それだけだ」
そう言われ、一旦下の方を振り返る光。
相変わらずの常闇だ。
腕は限界に達し、下から迫るのは、容易に死ねる高度。また、それの地面が見えない事が死への連想をより強いものにした。
まるで、落ちたら地面どころか地獄に呑まれるような、そんな恐怖感が身を包む。
「ひいぃぃ。死ぬよぉ。まじで」
一旦下を覗き出すと、余計にそれを意識して、なんとなく下から目が離せない心境に陥る
腕は限界なのに、登ることも、降りる事も困難を極めた。
と、そんなふうに下を見ていると、下を照らすヘッドライトに、きらりと何かが反射した。 確かに見えた。何か虹色のようなものが、小さく一瞬煌めいた。
「え? 何か光った」
「何?」
そう言われて潤史朗も、一旦手を止め下の方を覗きこんだ。
しばらく観察していると、確かに虹色の物体が光を反射し輝いている。
更に観察を続けていると、その反射の頻度は徐々に増していき、そして何か、不快な音を伴い始めたのだ。
その音とは、誰もが体験してるであろうあの音だ。
夏の夜、ただでさえ蒸し暑く寝苦しいと言うのに、加えて耳元でその音を鳴らし、人の睡眠を邪魔する不快な音。
そんな夜は、とある線香が必須であろう。
「解析してやろうか?」
クガマルが背中で言った。
「いやいい。大体把握できた」
「数は?」
「わからんね、でもそれはとりあえずいい」
迫る虹色。
煌めくそれは、高速で上下する羽のようなものにみえた。
いや、間違いなく何かの羽であった。
「あのぉ、ジュンさん? これって……」
「ヒカ! ガスマスクを急いで!」
「りょ、了解す!」
そう言う潤史朗は、縦に走る鉄柱を両膝でがっちりホールドすると、両手を壁面から離し、慣れた手つきでガスマスクを装着。続いて体を下向きに反らせ、羽ばたく虹色に放射ノズルの先端を向けた。
「圧力開放よし。いつでも撃てるぜジュンシロー」
背中にとまるクガマルは、ボンベ下部分の栓を捻って言った。
「いや、まだ掛かる」
「あ?」
見ると、防護マスクをまだリュックから取り出せていない光。
何に手こずるかと言うと、その両手を壁から離せない事で苦戦を強いられているのだ。
そしてやっと体勢を整えて、離せたのは片手のみ。その手で背負っているリュックの中を盲目的にひっかき回した。
しかし防護マスクはなかなか手に触れない。
して、そうこうしている内に、その煌めく虹色は、全貌が確認できる距離にまで接近した。 それに気づいて悲鳴を上げる光。
エレベータの昇降空間を飛翔するのは巨大な『蚊』であった。
大きさにあっては、クガマルの一.五倍ほど、おおよそ中型犬くらいとも言いえるサイズだ。
そんな巨大な蚊が持つ鋭い口は、まるで槍の先端のよう。あんなもので体を貫かれようものならば、場所によっては即死する。
「怪虫、デスモスキートだ。あれは人の汗や、吐き出す二酸化炭素に強く反応する」
「そのまんま蚊じゃねえか」
「因みに奴らは吸血する」
「だから蚊そのものだろ」
「しかし血を吸われたが最期、吸われ過ぎてミイラみたいになる」
「おっと、そいつはスケールが違うねえ」
「って言うか、ヒカさん。マジ急いで!」
「駄目だ取れない! クソッこの野郎。あ、と、取れたぁああ!」
光はリュックの中からガスマスクを探し当てた。
しかし、今度はそれがリュックの中、どこかしらに引っ掛かって抜き取れない。
光は力の限りをもって防護マスクを引っ張った。
「やばいやばいやばいやばい‼」
接近する羽音。
デスモスキートはすぐそこだ。
「やばいってぇええええ‼」
「クガマル、ヒカを」
「しゃーねーな!」
背中から飛び立つクガマルは光の元へと急行した。
一方潤史朗は、メガキラーの放射ノズルを手の中から離し、今度は腰に備えた大口径のハンドガンに持ち替える。
「やばいやばいやばいやばいやばいやばいぃいいいいいい‼」
デスモスキートは光のすぐ背後に迫った。
それは、二十センチほどの尖った吸血口を、彼の胸のあたりに狙いを定め、一瞬その場に滞空した。
クガマルとの距離は残り五メートル程。
その援護が間に合うか、間に合わないか。
さらに悲鳴を上げる光。
どう見てもクガマルの方が一瞬遅れて辿り着く。
間に合わない。
しかし、その高速で飛翔するクガマルを追い抜く存在が現れた。
それは、赤い光のレーザーポインタ。
レーザーは一瞬すらも時間を掛けず、ぱちりとデスモスキートの体を捉えた。
そして同時に響き渡る、気持ちいい程の炸裂音。
潤史朗の放った銃弾は、レーザー光を辿って走り、滞空していたデスモスキートをバラバラに破壊。そうして千切れたその羽は、はらりはらりと闇の中に舞い落ちていった。
「よし」
「まだいんぞ。油断するな!」
止まない羽音は、それがまだ複数体いることを示した。
視認できるのはあと三体。
「取れたぁ!」
クガマルの支援もあって、光はようやくリュックから防護マスクを抜き取った。
そしてそれを顔面に装着。
しかし、絡まるバンドは複雑にごちゃついて、思うように顔に密着しない。
して、その作業を行うのは片手のみ。クガマルも手伝うが、その大顎では繊細な作業は不可能だ。
次の瞬間、右手の平からポロリとマスクが落下。
叫びをあげて手を伸ばすが、その先にはまたしてもデスモスキートの姿があった。
「うひゃあああああ!」
「さっさと逃げろ! 死にてえのか!」
クガマルが光の尻を顎で摘まむと、彼は今までで一番の速力で壁を這い上った。
接近するデスモスキートが一体。
クガマルは顎を開いてその個体を迎え撃つ。しかし、デスモスキートは軽やかにその攻撃を回避した。
クガマルは自慢の顎で食いちぎろうと更に追い回すが、飛翔能力では圧倒的にデスモスキートが上をいく。
最高速と加速性能を生かし、クガマルは弾丸のように攻撃を仕掛けるも、デスモスキートは変則的に素早く動きまわり、その大顎に捕まる気配は全くない。
そしてクガマルの戦闘中、残りの二体が潤史朗と光のそれぞれに襲い掛かった。
必死で壁を這いあがり、足でそれらを振り払いつつ上に進む光。
潤史朗の方はハンドガンにて応戦するが、それもクガマルと同じように、変則的な動きに間に合わず、射撃軸線は全く重ならない。せいぜい威嚇で撃つのが精一杯だ。先程の命中は、所詮隙をついた偶然の当たりにすぎない。
「うあわぁああ、あっちいけ! くそっ、くそっ」
足で振り払おうとする光の方は限界が近づく。
デスモスキートはその様子を暫く観察したのちに突進。
潤史朗はその危険を察知。光の方にも威嚇で発砲した。
しかし、効果は薄い。
一刻も早くここを離脱し無ければ、持久戦でこちらが負ける。
二人は全力で壁を登った。
そしていよいよ潤史朗の方も弾丸を切らす。こちらも攻撃手段は手と足のみとなった。
執拗に追い回しに掛かるデスモスキート。その吸血口が刺さるのも時間の問題だ。
メガキラーを放射すれば事は済む。
拡散する毒の噴霧で、デスモスキートなど何体いようと一瞬で殲滅できるだろう。
だが、今それをすれば、一人の死亡が確定する。
しかしそれでもやらねばこちらも死ぬ。
拳銃の弾ももう尽きた。
「やれっ、ジュンシロー! もう限界だ!」
交戦中のクガマルが叫ぶ。
腰からは、導管に繋がった放射ノズルがぶら下がる。
やるか、やらないか。
その二択を選ぶ猶予は、もはや一刻も無い。
潤史朗に向けてデスモスキートが襲いかかった。
向けられた鋭い吸血口。
突進と同時に、ぶすりと鋭く刺突を受けた。
彼がかざした左腕に、その吸血口が突き刺さる。
「ジュンさん!」
が。そこで潤史朗は腕に刺さったデスモスキートを反対の手で素早く確保。
そして掴んだその胴体を、力の限りをもって壁に叩きつける。
デスモスキートはべちゃりと液体を噴き出して、壁に潰れて張り付いた。
「ジュンさん、う、腕! 腕が!」
「いいからお前は登れ! ゴミクソ!」
二対二となった瞬間、クガマルはデスモスキートを追い回すのを中止して、光の襟首に張り付くと、その飛翔能力で一気に上方へと力を掛ける。
それで飛ぶのは厳しいが彼が壁を這い上がる速度は倍以上になった。
時々離れてはデスモスキートを威嚇しつつ、光を上へ上へと引っ張り上げる。
そして、いよいよ高さは潤史朗の場所まで追い付いた。
「ジュンさん無事っすか!?」
「防護マスク、まだ予備もってるけど?」
「駄目だ! つけてる隙がねえ! ……いや、ちょっと待て!」
デスモスキートを追い払うクガマルは突然にその場で停止した。
「どったのぉ?」
「穴だ!」
クガマルが自身のライトで照らす先には、登っている反対側の側面に空く大きな穴。
それは穴というよりは、強引に壊した割れ目といった具合であり、設計上のものではないのは明らかだった。
正規の階層とは考えにくいが、逃げ込むにはちょうど良い大きさだ。
今度こそ、そこに選択の余地はない。
潤史朗はすぐさま壁を蹴り飛ばし、反対側面に空いた壁の割れ目に頭から飛び込んでいった。
「いやいやいやいや無理無理無理無理! 何メートルだってのこれ!」
「いいからお前も飛べ! 死にてえのか!」
「いや飛んだら落ちて死ぬよぉおお!」
そう喚くうちに迫りくるデスモスキート。
光は意を決して壁を蹴った。
その跳躍力は到底足りはしなかったが、しかしクガマルが引っ張り上げることで、何とか割れ目に手が届く。
そしてその手を掴む潤史朗。
彼を力ずくで光を穴の中へと引き込むと、襲い来るデスモスキートに放射ノズルの先端を突き付けた。
潤史朗の後方、逃げ込んだ穴の中で伏せる光は、両手で口と鼻を抑えて目を瞑る。
次の瞬間、エレベーターの昇降空間はたちまち濃霧で覆われた。
「やったか?」
「やったよ」




