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エレベーター ーⅠ

「という訳で我々は現在、非常に危機的な状況にあるわけだ」

 額から滝のように流れ落ちる汗を拭いながら潤史朗は言った。

「なぁ、おい」

「なんだね、クガマル氏」

「オレにはとても、目の前の野郎がそんな困ってる人間のようには見えないんだがな」

「それはいかんねクガマル氏。君は少し自覚が足りていないようだ。今は大変危機的状況なのだよ?」

「おいおい、それはお前に対して今しがたオレが指摘した事なんだがなぁ?」

「うむ」

 小型のバーナーに点火された青白い炎。

 その上にはアウトドア用のケトルが設置され、二人と一基はそれを囲んだ。

「で、なぜ湯を沸かす」

「食のためだ」

「何だと?」

「これを見たまえ」

 そう言う潤史朗は、荷物をまとめたカバンの中から、激しい動作でカップ麺を取り出した。「地下のソウルフーズ。カップ麺だ」

「……」

「残念だが、ドローンの君には食が不可能とみた。哀れだなクガマルよ」

「悪いが、三十九度の密室で、それを食べたいとは微塵も思わん。むしろこの環境でそんなもんを食いたがるお前は、すでに温度で頭がいかれてやがる」

「何だと?」

「まぁいいだろう、確かに腹が減っては戦が出来ぬと言うしな。緊急事態だからこそ飯がいるだろう。で、問題は何故車載の非常食がカップラーメンしかないのかって事だ。馬鹿だとしか思えんぞ」

「何を言うか。これは地下のソウルフーズだぞ」

「それはただオメエが好物なだけだ。地下もソウルも関係ねえ」

「無論、食後のコーヒーもある。おっと、湯が沸いた様だ」

「……」

 潤史朗は皮のグローブをはめた手でバーナーの火を切り、ケトルのお湯を二人分のカップに注いだ。

 もともと蒸気が沸き立っている空間に、さらに水蒸気が立ち込めた。

 まさに究極のサウナとでも言うべき場所で、カップラーメンを食わんとせん男がいる。

「クガマル、正確に三分を測定するんだ」

「はいはい」

「ふふふ。三分後が楽しみだ」

 そう言って、潤史朗はアルミの箸を蓋に乗せる。

「さて、では三分待つ間に、現状の整理をしておこうか」

 先程とは変わって、真面目な口調で喋り出した潤史朗。

 彼曰く、今現在抱える問題点は二つある。一つは自身らの置かれた状況。乏しい装備でバイクも失い、そして場所にあっては正確に地下の一万二千メートルだと発覚した。

 エレベータの降下中、ゴキゲーターがコンテナ内に侵入したことによって過重量となり、それによってブレーキに異状をきたしたエレベータコンテナは、地底のどんづまりまで落下したのだ。

 ここは、垂直に下へと掘り進む工事を途中で放棄された地のどん詰まりであり、エレベータコンテナの扉の外には平面的な階層空間は存在しない。つまり広がる空間は上しかなく、すると必然的に脱出ルートはエレベータ昇降空間を上に登るしかない訳だ。

 そして登ったとして最初の階層までは恐らく百メートル以上は距離があると推定され、また更に、どこかの階層に到達できたとして、その後も地下五キロ地点までの長い道のりを徒歩での移動を強いられる。もちろん、その間に現れるであろうゴキゲーターとの戦闘は極力避けなければいけない。

 それが今抱えている最大の問題である事は言うまでも無い。

 だが、特別殺虫係という組織的な観点からは、真の問題とはもう二つ目の事だろう。

 それはまさに、現在尾張中京都の地下五千で起きている異常事態について、である。


「それでヒカさん、話してくれるかな? 君が最初に地下五千の境界層を抜けた場所のこと。公安隊にはもう言ってあるのかな? 僕たちにも教えてくれると助かるけれど」

「あ、はい。公安は知ってます。ええとっすね……」

 時間の経過と共に、ヒカリンは徐々に落ち着きを取り戻しつつあったが、しかしその目は虚ろで焦点が定まっておらず、そして首はうな垂れていた。

「なんか、穴みたいな感じのがあって……」

「穴? それはどんな形?、大きさはどの位? 一体どこにあったの?」

「ええと、五メートルくらいですか。ごちゃごちゃした感じで」

 ヒカリンはしゃがんで顔を伏せたまま、呟くように言った。

「よくわからんね」

「わからんな」

 潤史朗とクガマルは口を揃えて言った。

「よし殺せ」

「落ち着けクガマル」

「ひいぃぃい」

「それにお前、場所も正確にわからねえんだよな? おい」

「あ、はい。……」

「よし殺せ」

「落ち着けクガマル」

「ひいいぃぃ」

「どこの賊だよ君は」

 クワガタムシに脅されて、隅っこに縮まるヒカリンだった。

「けど、これで一つはっきりした」

「んあ?」

「今現在、尾張中京都の地下五千以上おいて、メガ級地底害虫の発生危険がある、と言う事だ」

 潤史朗は胸の前で腕を組んだ。

「これは想定していた一番嫌なパターンだったけど……」

「いいや、一番おもしれえパターンの間違いだろ、ぎゃははははっ」

「ヒカさん。公安隊はその穴がどこにあるのか、もう把握しているの? 確か君は、その情報提供のために脳神経外科送りを差し止められている身だよね」

「案内しました。車で」

「なるほど」

「それで案内の最中、色々地下を回ってたら。そしたら、そしたら現れたんです。その、ゴキブリの大群が……」

 ヒカリンは震えながらにして、そのゴキブリと言う単語を発した。

「うむ」

「恐らくその穴は、もう公安隊が塞ぎにかかっているだろう。しかし……」

「その穴が一つなのかどうか、でもって、どういった経緯で穴が開いたのか。だろ? ジュンシロー」

「そう。それが問題だ」

「過激派が思いつきでやったんじゃねえのか? あいつら爆発とか好きだろ。俺も好きだ」

「もしそれが原因なら幸いなんだけどね。でも、浅いとこでのゴキゲーター大量発生事案も、無関係とは思えないし」

「わかったぞ。オレには」

「なに」

「これも過激派の仕業だ。ゴキブリを地上に撒き散らす、ある種のバイオテロだぁ。ぎゃははははははは」

「過激派は君だよ。クガマルや」

「ぎゃははははははは。今に起こるぞっ、大量虐殺が! ぎゃははははははっ」


「それ、マジ、なんすか」

 二人の会話を聞いていたヒカリンは、呟くようにそう言った。

「あ、あんなんが、地上に……」

「うむ」

 ごくりと唾をのみこむヒカリン。

 彼の虚ろな眼差しは、一旦潤史朗の方に向けられた。

「それがマジにならないようにするのが、僕とクガマルの仕事だ。絶対に防ぐつもりでいるから冗談で笑える」

「仕事で……。その、何か使命みたいな、感じで?」

「そんな大したもんじゃないよ」

「……」

 ヒカリンは再び視線を下に戻した。

「確かに仕事だぁ、上の町を守るのはなぁ」

 クガマルか言う。

「なんたって、オレにとっちゃクッソどーでもいい事だからなあ。んな事。だから仕事だ仕事。つまんねーけどやるのが仕事だろ? 使命感なんてあったら、とっくにバイオテロ起こしてんだっての。ぎゃははははは」

「あ、僕は違うよ? あくまで人道的なあれだからね。うん」

「そう、すか……」

「まぁね、まぁ色々と思うところはあるんだけどね……」


 *  *  *


 地下のソウルフーズ、その醍醐味とは一体何なのか。

 縮れた麺を割りばしで掴み取り、スープを飲みながらズルズルと啜る。

 何てことはない。ただのカップ麺だ。

 ただ、このサウナ状態の地底で啜るカップラーメンは、他とは一味違った趣がある。それは言うなれば、真冬に食べるアイスクリーム。それに特別感を感じる人が多いように、この男、志賀潤史朗も、このカップ麺に感じるところがあるらしい。

 しかし、傍から見ていると、猛烈に汗をかいて、外と内の熱気に耐えつつ、何とか喉に熱湯を流し込んでいるだけの苦行にしか見えない。はっきりいって変態だ。

 だが、本人としてはこれが良いと言うのだ。

 どうぞと言って、それを手渡されたヒカリンも、困惑の表情を隠せていない。

 しかしそれでも、元気が出るからと言って半ば強引に渡されたカップを口にする。

 まず湯気でむせる。そして熱い。

 よりにもよって、そのチョイスは名古屋名物台湾ラーメンである。

 今彼らはどんな運動競技よりも激しく汗をかいていた。

「そして水分はない!」

 潤史朗は食べきった。

「ただの馬鹿だろ」

「旨けりゃいいでしょ?」

「一理あるが、そういう問題じゃねえ」

 両手で必死に汗をぬぐうヒカリン。

 麺を何十回も息で冷まし、一気にそれを啜りにかかる。

 もはや味わう余裕などない。

「クッソ! あちぃ!」

 声を出して気合を入れたヒカリン。彼は遂にスープを飲み干した。

 そして再び拭う汗。

「はぁ、はぁ、暑い……」

「ほら、元気出た」

「え?」


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