8.お兄様の帰還
頭でも打ったのか、それとも何かにとり憑かれてしまったのか、むしろ逆に憑き物が落ちたのか。三年前に使用人の間で様々な憶測を呼んだミリエラの急な変化を、いまだに知らない人間がいた。
ミリエラの二歳年上の兄、エドモントである。
彼はレオンが「前の時代の記憶」を思い出す直前に、王立学院に入学し学院の寮に入っていた。
学院では九歳、十二歳、十五歳での入学が認められる。基本的に高貴な家の子息や優秀な子供は早々に入学することになる。公爵家と言えば押しも押されもせぬ大貴族。ファウルダース公爵家長男のエドモントは、例にもれず九歳で王立学院に入学していた。
そのエドモントが、ミリエラの十歳の誕生日に合わせて珍しく帰宅するという。入学してこれまで三年、父親や母親が折に触れ学院に赴き面会していた為、わざわざ家に帰ることがなかったのだ。
一方のミリエラも、兄の帰宅に関して特に思うことはなかった。
ミリエラが兄と過ごしたのは七歳まで。それまでのミリエラは父母に甘やかされ、注意してくれる大人はおらず、我が儘三昧のお嬢様だった。その人生に兄の影は特になく、あまり兄弟間の交流がなかったのだ。
そんな話をお茶の時間にミリエラから聞きながら、レオンは頭の中から消えつつある乙女ゲームの記憶を掘り起こそうとしていた。
王立学院といえば、『蜂蜜色のラプソディ』の舞台なのだ。あと五年したらあのゲームの世界がはじまってしまうかもしれない。
「これは一回ゲーム関係の話をまとめとく必要があるな」
「何の話です?」
「前に話したろ。僕やミリエラの未来を、前の時代に見たことがあるって。最近それを忘れてきているみたいだから、日記か何かに書き出した方が良いかと思ってね」
ミリエラは「なるほど」と呟いてカモミールティーを啜ったが、多分よく分かっていないのだろう。彼女はちょっと考えた後、おずおずと上目遣いでレオンを見上げた。
「叔父さま。日記もいいけど、私またマンガが読みたいわ」
レオンは驚いた顔で、ミリエラを見返す。
彼女には初めに二冊のマンガを贈ったが、そのあとは暇つぶしに描いた四コマ漫画を何度か描いて見せただけになっていた。
他に描いた絵といえばミリエラと友達ノエルのイラストくらいだ。そもそもレオン自体がレオンとして生活するのに気を取られ、漫画を描くことから離れてしまっていた。
マンガが読みたいとまじめな顔で言われて、途端にレオンの創作意欲もわく。
「そうだなぁ。またマンガも描いてみるか」
「叔父さま、ほんと?」
「ああ。ミリエラが読みたいって言ってくれてるしね」
そう言ってレオンはミリエラの小さな頭を撫でた。
レオンにとってはすでにこの生活を続けて三年。
既にこの国やこの家の事を把握しつつあるレオンは、第二の人生を生きる心づもりも出来た。そして同時に、乙女ゲームでは悪役令嬢ポジションであったミリエラにも愛着がわいてしまっていた。
なるべくならこの小さな姪に不幸になってほしくないし、そのためにはできることをしてあげたい。
ミリエラはレオンが初めに話した言いつけを守って、随分素直な性格になったと思う。この性格であれば、自発的に悪役に走る事も無いだろう。
しかし、恋心を抱えた乙女の行動力がすさまじいのも確かだ。彼女にはできればゲームの主人公とぶつかる恋愛は避けてほしい。
頭を撫でられて照れ臭そうなミリエラを、レオンは慈しむ様にもう一度撫でてやった。
それから一週間後。
その日はとてもよく晴れた暖かな春の日で、ファウルダース公爵家の使用人たちも楽しそうに各々の仕事をこなしていた。特に今日は午後に長男のエドモントが帰宅し、その後ミリエラの誕生日パーティーが開催されるのだ。
この三年ですっかり屋敷の面々に可愛がられる存在になったミリエラの為、多くの使用人がいそいそと準備を進めていた。
「お嬢様!パーティー用のドレスはお兄様をお迎えした後に着ますので今はこちらですよ」
真っ赤で艶のあるドレスを掴むミリエラを見て、侍女のマイユが眉尻を上げた。基本的にミリエラは勝負服に必ず赤を選ぶほど赤が好きだ。特にレオンに秘めた思いを抱くようになってからは、レオンのサラサラの髪に似た赤い色を取り立てて好んでいる。
それを知っているマイユはミリエラの頭にいつもの赤いリボンを結んであげて、クリーム色の普段着に近いドレスを持ってきた。
着替えを済ませ、昼食をとってしばらくしたら、使用人がミリエラの部屋をノックした。兄エドモントの乗る馬車が到着したという。ミリエラはメリサとマイユ二人の侍女を伴い、エントランスへ向かった。
父と母、レオンもいる玄関に到着したミリエラは、皆と同じように表に向かって立つ。するとそれを待ち構えていたように重い扉が開いた。
「ただいま、父上、母上!ただいま、妹よ!!」
エントランスから高い吹き抜けの天井まで響くボーイソプラノで、エドモントが言い放った。びっくりしているミリエラ達の横でレオンがボソッと「テンションたけえな」と呟く。
公爵夫妻は慣れているのか、平然と息子を腕のなかに迎え入れた。
「お帰りなさいエド。疲れたでしょう?」
「大丈夫です母上!」
いちいちでかい声で身ぶり手振りしながら話すエドモント。ドン引きしているミリエラの横で、レオンはピクッと顔を上げた。
ミリエラとしては、兄の記憶がおぼろげなので単に声のでかい人としか思えない。しかし父母の手前そう言うことも出来ず無難な挨拶を選ぶ。
「久しぶりですわ、お兄様。お元気そうで何より」
「おや?ミリエラはもっと底意地が悪い狐みたいな子だった気がするんだけど、何だか変わったね!私は良いと思うよ!」
驚いて言葉を失った家族を尻目に、エドモントはレオンにも声をかける。
「レオン叔父様も引きこもりをやめたとは聞いてましたが、前とは別人みたいだ!いいですね、これからは仲良くできそうだ!」
人の鼓膜を攻撃するのかというほど高く響く大声で、エドモントが全員を黙らせる。父母以外の人間はその癖のありすぎるキャラに付いていけず、曖昧なままお出迎えは終了した。
「何だったの、あれは」
ミリエラは廊下を歩きながら、メリサに話しかける。その口調は呆れてはいたが、腹をたてているものではなかった。三年前ならいざ知らず、今のミリエラは過去の自分の悪口を言われたくらいで怒り出す少女ではなかった。
逆に横を歩くレオンの方が黙りこんでいる。
ミリエラは心配になって彼の顔を覗きこんだ。
「叔父さま、大丈夫?」
「ああ。……ミリエラ、ちょっと作戦会議がいるかも」
「作戦会議って?」
心配そうなミリエラに答えることなく、レオンはフラフラと自室に戻っていった。
レオンはちゃんと自分の誕生日パーティーに出てくれるだろうかと、ミリエラは不安そうにその後ろ姿を見送った。