エピローグ
俺、僕。
そんな一人称で人格が変わるとは思わないけど、レオンとなった僕は「俺」と自称することが滅多になくなった。今では同じ日本出身のアンと話していても「俺」なんて出なくなった。
それは少し寂しいけれど、哀しむ程ではなかった。
「叔父さま」
柔らかい声が耳に届いて、僕は振り向いた。
夏用のドレスをまとって軽やかに笑うのは、僕のお嫁さん。
春に彼女が学院を卒業し、僕らはささやかとは言えない結婚式を挙げた。まるで海外の歴史ドラマのような豪勢な式だった。前の年に甥の結婚式を経験していなかったら、圧倒されっぱなしだったに違いない。
僕のお嫁さんは生粋の上流貴族だから、それは堂々としたものだった。国中探しても彼女以上の花嫁はいないだろうと皆から言われていたが、その大げさな賛辞にも彼女は動じることなく微笑んでいた。
そんな彼女は、僕が触れるだけでいまだに頬を淡く染める。
「そろそろお昼ですわ。お仕事は一旦おしまいになさって」
「分かった」
僕は羽根ペンをスタンドに差して立ち上がった。
昼食は料理人が用意したものを二人で食べる。公爵家にいた頃に比べると使用人の数は少なかったが、それでも地方の伯爵家としては十分な数がいる。特に自分に長年付いてくれていたバートが執事として来てくれたのには助かっている。
そのバートは昨年、ミリエラの侍女を長く務めていたメリサと結ばれた。メリサは今出産の為に里帰りをしているが、そのうち子どもを連れてこの屋敷に来る予定である。
「バートは?」
「私が叔父さまを呼びに行きたいってお願いしたの。だから怒らないであげてね」
怒るも何も、ミリエラはしょっちゅうこうして執務室に顔を出す機会を狙っている。逆に防波堤になっているバートには同情すらしているところだ。でも彼女がこうして執務室に呼びに来るのも僕目当てなのだから、彼女にだって怒れない。
むしろその可愛らしさににやついてしまう。
食堂は、元あった食堂から小さめの部屋に変えてもらった。日本の一般的な家庭出身の僕からしたら、だだっ広い部屋で二人きりで食事するのはなかなかに疲れるのだ。
「夏に編み物をするのは大変だわ」
全然大変そうに見えない顔でミリエラが文句を言い始めた。僕はそれに続く内容が予想できているのだが、黙ってパンを口に運ぶ。
「メリサもアネッサも年末の予定なのよ。どうして同じ時期になっちゃったのかしら。今から編まないと間に合わないわ」
「何を作るんだい?」
「色んな人に、赤ちゃんへの贈り物は大抵事足りるって聞いたの。だから私はメリサとアネッサが羽織れる肩掛けを編もうと思うの」
「へえ」
「お乳を上げる時にも寒かったりするでしょう。そんな時に使ってもらえるようによ」
最近の僕らの会話の半分はこの二人の懐妊と生まれる子どもの事だ。ミリエラがはしゃぐのを見ているのは微笑ましいけれど。
「僕らの赤ちゃんにも早く会いたいね」
そう言うと、照れた顔を隠すようにミリエラはそっぽを向く。本当のことを言うともう少し新婚気分を楽しんでいたいのでただの軽口だ。
軽口に黙ってしまったミリエラが、すごいスピードで食べ物を口に運んでいる。視界の端に映る使用人が肩を震わせているのが分かる。僕は使用人達に目配せをしてから、ミリエラに向き直った。
「ねえミリエラ」
「なに?叔父さま」
「そろそろその、叔父さまっていうのをやめない?」
うぐっ、と漫画のような声を上げてミリエラが動きを止めた。
今まで指摘した事はなかった。彼女の呼ぶ「叔父さま」という響きはとても甘くて、しばらくはそれでもいいかと受容してきた。しかし結婚してこの北の地に来て三ヶ月。そろそろ名前を呼んでほしい。
「叔父さまでは、駄目かしら……」
「駄目じゃないけど、ミリエラと僕はもう夫婦だからなあ。できれば叔父さまは卒業したいな」
僕のお嫁さんはわりかし簡単だ。こうして少し困った顔をしてお願いすれば、大抵の事は聞いてくれる。今回も思ったとおり。唸りながら表情をコロコロ変えていたが、数分後に意を決して顔を上げた。
「あ、あなた……」
「うーん。なるほどそうきたか」
「えっ。違うの?」
「いや違わないんだけども」
そうだ。確かに夫に対しては「あなた」で正しい。でも名前を呼ばれるものだとばかり思っていたせいで拍子抜けしてしまった。肩を落とした僕に気づいたのか、また使用人が笑いをこらえている。今度は恨めしい気分になった。
クス、と聞こえた気がして頭を上げる。
ミリエラの緋色の瞳が煌いて、桜色の唇が弧を描いた。
「レオン」
ああ。普段は照れてばかりいるくせに、こんな時の女性は強い。彼女の瞳は僕だけを映して、彼女の唇は僕の名だけを紡いだ。
急激に血が頭に上る。真っ赤になっているであろう僕の顔を見て、ミリエラは勝利の笑みを浮かべた。
「レオン。ずっと一緒にいてね」
「うん?」
「あなたが違う世界の話をするたび、不安になるの」
小さい部屋なので、僕とミリエラの間に大した距離はない。彼女が少し腰を浮かすので僕も前のめりになり、彼女の手を握ってやる。彼女の笑顔に不安や不満は見えなかったが、それでも手を掴んだのは僕がそうしたかったからだ。
「私の為に先生も辞めてくれたのに、こんな事を言うのは失礼かしら。でもたまに怖くなる事があるのよ」
「元の世界に僕が戻りたがってるように見える?」
ミリエラは曖昧に首をかしげた。この不安は言葉にしづらいものなのだろう。理解できるのは僕にも大事な人ができたからだ。
「たとえこことは別の故郷があったとしても、昔の事を懐かしく思っても、僕はもうミリエラと離れられないよ」
「レオン」
僕の名前を呼ぶ声がむず痒くて、たまらずミリエラに口づけた。彼女の唇は柔らかくて、何度触れても情けないほど胸を高鳴らせてしまう。
「ゴホン」
握っていたミリエラの手がビクッと跳ねる。
二人で顔を動かすと、手を口に当てて咳払いをするバートの姿があった。瞬時に公爵家のベテラン執事を思い出す。そういえばバートは彼の元で執事のイロハを学んでいたのだった。
「旦那様。そろそろ午後の執務に」
「ああ……。じゃあミリエラ、また後で」
「はい」
火照った顔を冷ますように手をハタハタと振っていたミリエラが、僕を見上げて頷く。立ち上がり軽くお辞儀をする姿はまだ十代の若さに溢れていた。この可愛いお嫁さんの為にも、仕事はきちんとしなければ。
「妻が里帰り中の私の身にもなってください」
「悪い悪い」
「お二人だけの時でしたら、どれだけ睦まじくても邪魔はいたしませんから」
だから午後の執務も気合を入れてやれと言うことだろうか。主人の手綱を握るのがうまいなぁと思わず笑ってしまった。
僕自身も、ミリエラと出会った時から彼女の手綱を握っているつもりでいた。彼女の悪役令嬢人生を軌道修正してやろうと考えていた。はじめはそれだけの存在だったのに。いつの間にかあの少女は僕の心の中心に陣取ってしまった。
いや、もしかしたらはじめからミリエラはレオンの人生の中心にいたのかもしれないな。
「やっと名前を呼ばれたからってにやつき過ぎですよ、旦那様」
「いや、そういうわけじゃ……」
言い訳をしようと思ったが、それ自体がまた惚気だと言われる可能性もある。僕はバートの背中を一つ叩いて、午後の日差し差し込む廊下を歩くのだった。
― 完 ―
これにて本編完結になります。
ここまでお付き合い頂き、本当にありがとうございました!