44.叔父さまからの言葉
恋というのはある種病気のようなものだ。
レオンがこの一月余りで思い至ったのは、そんな単純な感想だった。
思いを打ち明けてきた姪のことは、彼女が七つのときから知っている。厳密に言えばそれよりも前から知ってはいたが、生身の彼女を知っていたわけではないのでノーカウントだろう。
告白されて意識せざるをえなくなった。その後、ミリエラがさらわれた一件で彼女を失いたくない気持ちに気付いた。更にアンに意味深な事を言われて焦りが生まれた。きっとその頃にはもう、恋愛感情を自覚していた。
自分は恋をしている。
それに気がついた瞬間から世界に色がついた。もともと落ち着いた色味や生活が好きで、服も家具もなるべく少ない色の中で生活していたレオン。しかしその日を境に明るい色が目に飛び込むようになっていた。
特にミリエラが好んでまとう赤を見ると、何だか落ち着かない気持ちになる。これではまるで病気だ。
そんな時、ふと思い出した事があった。
この世界では聞かないが、前に生きていた時にテレビか何かで知った『吊り橋効果』というものだ。
厳密にいうと当てはまらないシチュエーションかもしれない。だがミリエラを失うかもしれないという緊張状態を、自分は恋だと勘違いしたのではないか。
そんな不安があったレオンはミリエラへ返事するのを保留にした。確実にこれは愛情だと確信が持てたら前に進もう。
「そんなふうに思っててね」
ミリエラを連れて中庭のテラスにやって来たレオンは、ミリエラの為に椅子を引きながら苦笑した。何故今まで告白の返事をくれなかったのか、の言い訳の最中である。
「叔父さまが慎重な性格なのは知っておりますけど」
「面目ない」
「いつの間にか言ったつもりになってる方が問題ですわ」
椅子に腰をおろしたミリエラが、ぷっと頬を膨らませる。
「なんだろう。ミリエラの事をずっと考えてたから、いつの間にかもう自分のものだと思うようになってたのかも」
「へ?」
「君と一緒になるなら爵位の問題をクリアしないといけないだろう?その為に事前に色々調べていたから、その頃にはすっかり返事した気になってたんだろうね」
レオンがミリエラの向かいに座る頃には、彼女は居間にいた時と同じように赤い頬を手で隠していた。「じ、自分のものって……」とブツブツ呟いているが、無意識のようだ。
小さなテラスのテーブルなので向かい合う二人の距離は随分近い。レオンはミリエラの左手を取ると、それを両手で包んだ。レオンの指がミリエラの薬指を撫でる。
その指の意味なら知っている。触れられている場所から鼓動が伝わる程ドキドキしているミリエラは、黙って次の言葉を待った。
「七歳の君は迫力があって怖かったなぁ」
「うそ。叔父さまは私の事一度も怖がったりしなかったわ」
「メリサやマイユはとても怖がってたね」
「そうですわね」
過去を思い出して心にほんの少し苦味が走るが、すでに謝罪も反省も遠い昔に終わっている。だからこそミリエラもレオンも淡く微笑んだ。
「ねえミリエラ。この先ずっと僕と一緒にいてくれないか」
「ええ。喜んで」
「兄上からのお許しはまだだけど、必ず認めてもらうから」
「はい」
「今ほど暮らし向きは楽ではないだろうけど」
「叔父さま」
溶けそうな瞳でレオンを見つめてミリエラは言った。
「私、叔父さまが大好きです」
「……ミリエラ。愛してる」
レオンがテーブルに片手をついて、腰を浮かせる。
彼の瞳に映る自分は、呆けたようなおかしな顔をしていると思った。ミリエラはそれが恥ずかしくてそっと瞳を閉じる。
レオンの顔が吐息がかかるほどの距離まで近づいた刹那。
「……うぉっほん」
ビクッと肩を浮かせた二人は、揃って声の方に顔を向けた。
そこには気まずそうに下を向くミリエラの侍女二人とレオンの近侍、そして何故か公爵家執事のジェラードが立っている。ジェラードが口に当てていた手を下ろすところを見ると、咳払いは彼の仕業らしい。
「ジェラード……。どうしてここに?」
「旦那様から、しばらくの間お二人の様子に気を配るようにと仰せつかっておりますので」
公爵と年の変わらないジェラードはこの家の第二の父親といった風格がある。彼は時代遅れのモノクルに指を当てながらニッコリ笑った。
「レオン様も今日はお疲れでしょうから、そろそろ一旦お部屋に戻られては?」
ジェラードの口だけの笑みに再び二人がビクッとすくむ。
「そうだね、もう戻るよ。ミリエラまた夕食の席で」
「ええ、また」
椅子から立ち上がったレオンは我に返った恥ずかしさに声が上ずっていた。傍目にも慌てているのが分かる足取りで去っていく。後ろを近侍のバートが追いかけて行ったのを見送ったジェラードは余裕の笑みを漏らした。
「お父様は意地悪ね」
「それだけお嬢様の事を大事に思われているのですよ」
ジェラードはミリエラに一度視線を落とすと、レオンと同じく開いた扉から屋敷に戻っていった。
それを見送るミリエラは、決まりが悪そうな困った子どものような顔をしていた。
翌朝には屋敷中にレオンとミリエラの一件が広まっていた。
公爵家の使用人はおおむね主人一家に対して好意的だ。特にミリエラに対しては娘のように妹のように思っている者も少なくない為に、屋敷には一種異様な雰囲気も漂っていた。
そんな中、朝食の席に揃った一家は静かに食事をとっていた。和やかな会話が許される夕食とは違い、さすがのエドモントも黙ってフォークを口に運んでいる。
全員の皿が下げられて冷たい飲み物が代わりに置かれた頃、最奥に座る公爵が声を出した。
「レオン」
意表を突かれたレオンは首を伸ばし、公爵の顔を見つめた後に「はい?」と返事をする。
「お前は宮中伯の家に入り、爵位を譲り受ける心積もりだったな。その後も教職を続けること、先方は納得しているのか?」
「はい」
「しかし彼は形ばかりの領地しか持たぬ。宮中での職を持たんとなると、この先お前達が一緒になったとしても先は暗いぞ」
痛いところを突かれた。
そんなレオンの表情をエドモントが向かいから眺めている。この事は既にレオンもエドモントも理解していた。いくら歴史ある爵位を譲り受けるにしても、教職自体は伯爵位を持つ者の職ではない。領地も宮中での要職もないとなると、この先の苦労は見えていた。
レオンの表情をひとしきり眺めた後で、公爵は鼻息混じりに話し始めた。
「お前はミリエラの為に今の職は捨てられるか」
「教職を、ですか?」
「本来なら私の持つ爵位は全て嫡子のエドモントに譲る」
エドモントが父の言おうとする話に思い至ったのか、パッと顔を輝かせた。その顔でミリエラを見つめるが、彼の妹の方はまだピンときていない様子である。
「だが自領とともにファウルダース公爵領の領主代行の職にあたるのなら、私の持つバルドン伯爵位を譲れるように計らおう」
「それって」
「お前は私の弟なのだから問題なく継承の承認はされるだろう」
つまり。
公爵はレオンに爵位の一つを譲るので、今後自領に加えファウルダース公爵領の領主代行を務めろ、と言っているのだ。
「もしやれるのなら、インファンティーノ伯爵には私から断りを入れておこう。……まあそうなると教職は続けられんし、領地を治めるのに色々学ばねばならん。だがこの条件が飲めるのなら許してもいい」
何を、とは言わなかった。そこは父としての最後の抵抗だったのかもしれない。
「返事はすぐにとは言わ……」
「やります」
この返答に、控える使用人の面々からも安堵のため息が漏れた。レオンは穏やかに微笑んで立ち上がり、公爵に身体を向ける。
「年度代わりまでは今の職を務めさせてください。来年の春からで良ければ、謹んでお受けいたします」
「分かった」
複雑な顔をした母、嬉しそうな兄、ふてくされたような顔をした父を順番に見たミリエラは、朝露を受けた薔薇のように艶やかな笑みを零した。




