37.占い師の焦燥
その晩、地下室にミリエラを残してノエルは戻らなかった。
階段の上には押し上げて開ける木の扉がある。そこを何度か押したり叩いたりしてみたが重い物が乗っているのかビクともしない。時間を置いて試しては、ミリエラは動かない扉にため息をついた。
何故誰かに一言、占い師の館に行く事を告げなかったのか。彼女は地下室で一人後悔していた。
(ノエルに再会できて舞い上がってたのかしら)
ミリエラはしょんぼりと硬いベッドに腰掛けた。
幼い頃はワガママで好き勝手もしてきたけれど、レオンに『ゲーム』の事を教わってからはそれを改めた。だから自分は同年代の女の子よりも大人なんだと思っていた。
それなのに一人で勝手な行動をとってこんな事になってしまった。これでは大人だなんてとても言えない。
地下室の中、ミリエラはまんじりともせず夜を明かした。
キィ、と音を立てて階段の上から光が漏れた。
ミリエラが頭を上げるとノエルが身体を滑り込ませるところだった。彼は閉めた扉にかんぬきをかけて階下に下りてくる。
日が出ていたようだが、ミリエラには今が朝なのか昼なのか判別できなかった。
「ミリエラ」
彼は手に持った袋と牛乳瓶をミリエラに渡した。生活に必要な家具は最低限揃う地下室だが食料はない。食事らしいそれを受け取ったが、彼女は袋を開ける気にはなれなかった。
「クマができてる」
ノエルの長い指がミリエラの目尻を撫でた。
ミリエラは何を言おうか言葉を探すようにノエルの顔を見上げる。視線に気づいたノエルは、苦笑を浮かべた。
「横、座っていい?」
「どうぞ」
昨日からずっとこうだ。
もっとノエルからひどい扱いを受けたなら、過去の記憶に惑わされることもないのに。優しげな彼は昔の面影を思い起こさせた。
ノエルは両手で組んだ指を遊ばせている。それを見つめながら独り言のように語りだした。
「ボス……座長であり親でもある人なんだけど。ボスからよく言われてた言葉があってね。『人生にはキメなきゃいけない時が何度かある。それは突然来るもんだ』ってものでさ」
「……」
「多分ボスは、任務で迷う事があってもキメる度胸を持て!って言いたかったんだろうね。僕はまだそんな状況になった事なかったけど、いつかそんな心構えがいるんだろうなと思ったよ」
ミリエラはその状況というものに思いを馳せた。
スパイという職を考えると、非情なことなのだろうと想像がつく。
「きっと僕には、今がそれなんだ」
ノエルは言葉を切ってミリエラの方に顔を向けた。
ミリエラは一瞬身構える。『キメる』というのが何を意味しているのかが分からない。途端にノエルが怖くなった。
「ミリエラは僕の踊りを一番だって言ってくれたし、僕と友達になりたいって言ってくれたよね。あの頃の僕はそれでどれだけ救われたか分からない。……そんな君を犠牲にしてまで僕は生きていたくないよ」
「ノエル……」
「ミリエラ、僕と一緒に逃げてくれないか?」
ノエルはミリエラに触れようと手を伸ばしたが、それを途中で止めた。それは彼の罪悪感の発露のように見える。ノエルはその手を下ろすと自分の膝の上に置いてギュッと握った。
「公爵家は一介の諜報機関が懐柔するには大きすぎる。ボスはきっと君を取引の材料とするには持て余すだろう。だから君はこのまま口封じで殺されるか、遠い国に売られると思うんだ」
「そんな……」
「君をそんな目に遭わせるくらいなら、僕は君を連れてここから逃げたい。たとえこれから追われる身になっても君の事は僕が守るから」
ランプの光を受けて、ノエルの黒い瞳が琥珀のようにきらめいていた。整った顔が熱を帯びたように染まっているが、それが彼の熱なのか光の照り返しなのかミリエラには分からない。
しばらく黙っていたミリエラは、ゆるゆると首を振った。
「駄目よ。一緒には行けないわ」
「どうして」
「この国に、離れたくない人達がいるの」
すがるような瞳だったノエルは、少し苛立ちをにじませてミリエラを睨む。それに気づきながらもミリエラは自分の言葉を曲げなかった。
「いくら離れたくなくても、死んでしまったらその人達ともう二度と会えないんだよ?」
「それはそうだけど。でもやっぱり行けない」
「昨日も言ったけど、今晩にはボスの返事を持って仲間がここに来る。そうしたらもう君を助けられないんだよ!」
語気を荒らげたノエルに対し、ミリエラは再び首を振った。
「あなたの気持ちは嬉しいわ。けれど駄目なの」
「なんで……」
「心残りが家族や友達だけなら、あなたに付いて行ったかもしれない。生きてさえいればいずれ会うことが叶うかもしれないから」
「そうだよ。生きてさえいれば」
「でも私には一緒に生きていきたい人がいるのよ」
ミリエラは哀しみを含みつつも微笑みを浮かべていた。
ノエルはその微笑みに見覚えがある。
まだ踊り子をしていた遠いあの日。頬を染めていた幼いミリエラの笑顔そのままだった。
「叔父さん?」
「え?」
驚いて目を見開いたミリエラ。彼はそれを肯定だと受け取ったようで、いびつに笑った。
「叔父さんのこと、大好きな人だって話してたよね。叔父さんの話になると君はいつも幸せそうな顔をしてた」
遠い目をするノエルを見ながら、ミリエラは制服の胸元につけている猫のブローチに手を当てた。そして控えめに頷く。
「私の人生には叔父さまが必要なの。叔父さまの居ない地で生きていくなんて考えられない」
「ミリエラは、子どもだなぁ」
ノエルはハッと鼻息を吐いて笑った。苛ついたようにノエルの足が小刻みに動く。
「この国の衛兵がいくら優秀でも、この場所はすぐには見つからないはずだ。ここで待ってても助けは来ないし、それどころか晩には僕の仲間がここに来てしまう。さっきも言ったけど君は僕と逃げるしか助かる道はない」
「……」
「それでも逃げないってことは『叔父さんと一生会えないくらいなら死んだ方がマシ』って言ってるのと同じなんだよ。君はそれでもいいかもしれないけど、残された叔父さんは?」
先程まで潤んでいるように見えたノエルの瞳は、今はもう冷静さを取り戻していた。黒髪をかきあげながらノエルが言う。
「後に君の死を知ったり、奴隷に堕ちた君を見るかもしれない。その時の叔父さんの気持ちを考えたかい?」
「……」
「君が無事に生きていれば、叔父さんは希望を持っていられるんじゃないの?僕から見たら、君は自分の事しか考えてないお子様だよ」
何も言えないミリエラは青ざめ震えだした。
ノエルの言う事はもっともだった。(叔父さまと生きていけないのなら死んでも仕方ない)と覚悟をした身に冷や水をかけられた気持ちになる。
震えるミリエラを、立ち上がったノエルが見下ろす。
「分かったろミリエラ、ここは逃げるべきなんだ。僕はこれから命をかけて君を守る。だから日が暮れる前に二人でここから逃げよう」
そう言ってノエルが手を差し出したその時。
階段の上にある扉からガタガタと大きな音が鳴った。
ノエルがバッとそちらを振り仰ぎ、遅れてミリエラが扉を見上げる。
ノエルがミリエラの腕を掴んで立ち上がらせたのと、扉が勢いよく叩き壊されたのは同時だった。
「ミリエラ!」
開いた扉から下りてきたのは剣を構えた二人の騎士。
だが響いた声はその二人ではない。大声でミリエラの名を呼んだのは、騎士達の後ろから現れたレオンだった。
その声に弾かれるようにミリエラが身を乗り出す。
「叔父さま!」
まさか会えるとは思わなかった、今一番会いたかった人の名をミリエラは精一杯の声で叫んだのだった。




