33.占い師の失態
雨の湿った匂いがまとわりつく。
暗くなった街道を、一頭立ての馬車がゆっくり進む。一人用の席がある幌の中にはミリエラを座らせ、後ろの立ち台に立ったノエルは手綱を握って馬を進めていた。
雨の降る中彼は黒いフード付きの外套を被り、中で座るミリエラも同じような外套を被せられている。
(今走っているのは、どのへんだろう)
外の見えない狭い馬車の中で、ミリエラは身を固くしていた。
強く手首を握られた時は気が動転した。だが座らされてからノエルに「ごめん」と謝られて、何とか冷静に戻れた。
ノエルは黒いフード付きの外套を二つ持ってきて一つをミリエラに被せる。それは彼女が着るには重すぎて、前の留め紐を結ばれると腕を上げるのも一苦労だ。彼女が着たのを確認して同じものをノエルも被る。
それから手をひかれるままミリエラは裏口から外へ出た。
暗い裏道をしばらく歩いて貸厩舎まで来ると、ミリエラはそこにあった馬車に乗らされた。一頭の馬に一人用の小さな幌がついている。後ろには御者の立つステップがあり、そこから手綱で馬を走らせるらしい。幌の留め具を掛け、すぐにノエルが手綱を握る。
ゆっくり動く馬車の中で、ミリエラは考えていた。
手首を握られた恐怖で自分がまだ萎縮しているのが分かる。それにこの雨と暗さで、ここまで人影を全く見なかった。助けを求めるあてもないのに飛び出すのは得策と思えない。
しばらくすると強かった雨音が弱まり、幌の中も静かになった。同時にこれまで石畳を走っていたのが舗装されていない道になり、身体に振動を感じる。
一時間ほどで馬車が止まり、幌の横布が開けられた。
「ミリエラ、降りて」
再び手を繋ぎ、着いた場所を見回した。
暗くてほとんど見えないが、雨に混じって草の匂いがする。目の前にはポツンと一軒だけ建つ木造の小屋があった。
「ねえ。あの二人はどうして君を連れてきたんだろう」
「サリーとケイティのこと?」
「うん」
外套を脱ぎながら尋ねるノエルに、ミリエラは記憶をたどった。
「二人は私の友人を誘おうと思ってたみたいで、私に彼女の居場所を聞いてきたの。その時は居なかったから、そう答えたのだけれど……」
「それで?」
「その時に占い師の話を二人から聞いて、私が興味を持ったら一緒に行こうと誘ってくれたのよ」
ミリエラを二人がけの硬い椅子に座らせて、ノエルもその横に腰をおろした。空気はひんやりとしていて、触れた肩のあたりにじわりと温かさを感じる。ノエルが黙ってしまったので、今度はミリエラが尋ねた。
「ねえ、ノエル。どうしてこんな事をしたの?」
わけもわからず、裏切られた思いで心が痛い。ミリエラはせめて理由を聞いて気持ちの方向を決めたかった。
ノエルは俯き、疲れた顔で呟く。
「君を見た瞬間、嬉しくて名乗っちゃった僕のミスだよ。本当はジュレディンベル男爵令嬢を……」
「え?」
「ジュレディンベル男爵令嬢を連れて来いって二人に命令してた」
「どうして、アンを」
「彼女を誘拐しようかと思ってね」
逃げないようにするためか、別の意図があるのか。ノエルはミリエラの白い手を自分の両手に包み込んで告白を始めた。
旅芸人はね、国をまたいで興行をするんだ。だから諜報活動をするのにはうってつけなんだよ。
スパイってやつさ。
僕達はサーカス団として色んな地域を回って、情報を集めてる。僕みたいに成長したら個人で動く奴もいるよ。
君とお別れをした王宮とかさ。あんなとこで活動してもバレなかったなんて、ここはおおらかで危機感のない国だよね。
けどこの国の国境近くは違う。特に二国が隣あってる南の国境。あの辺は辺境伯を中心として、力のある領主達が守りを固めてる。そのおかげでこの国は侵略の脅威もなく平和なんだって。
僕の母国が一昨年だったかな。「レンダルハル王国南部の守りの、その一角を篭絡するように」ってウチのボスに命令を出したんだ。つまり、この国の領主の誰かをこっちの味方につけようってわけだ。
それで南部の領主の事を調べてて知った。今年からジュレディンベル男爵家のご令嬢が王立学院へ通うって。
ジュレディンベル男爵といえば南の領主達の中でも有名なんだよ、知ってる?忠誠心が高くて武勇優れた領主って。
でもそんな人でも、愛する娘が王都でひどい目に遭えば、国への不満をいだくはず。そうすれば付け入る隙が出来るだろう。ってボスが考えてさ。
で、僕に指令が出た。ジュレディンベル男爵令嬢に危害を加えろってものだった。男爵が国に不信感を抱くよう仕向けるように。
サリーとケイティの親は王宮の上級官僚らしいね。
館の常連になった彼女達に、最初は男爵令嬢をいびるように誘導してみた。だいたいどの世界でも人間は下の立場をいじめるものだからね。男爵令嬢が心に傷を負って故郷にでも帰ればと思ったんだ。
だけどあの娘達は度胸がなくて無理みたいだった。だから今度は二人を使って、男爵令嬢を誘拐しようと思った。
中央の宮仕え貴族の子にそそのかされたせいで自分の娘が誘拐される。そうしたらどう転んでも『しこり』は残る。って算段でね。
二人とも僕に夢中らしくてさ。いじめは無理だけど連れてくるだけなら簡単だってすぐに了承してくれたよ。
それなのに、君を連れてくるなんて。
君の姿を見た瞬間、僕は懐かしくて嬉しくてね。思わず君にハンカチを見せちゃった。
けどすぐ後に気づいたんだ。
サリー達は、僕が男爵令嬢に何かしようとしてたのを知ってる。
そしてミリエラは僕がサーカス団にいたことを知ってる。もし二つの情報が合わさって、それを誰かに訴えられたら大変だ。僕だけじゃなくサーカス団にもスパイの疑いがかかるかもしれない。
そしたらサーカス団はお尋ね者。スパイ活動も出来ず母国に切り捨てられる。そのうえ万が一誰かが捕まったら母国の事までバレちゃう。
それが僕の考えた最悪のシナリオだった。
「何故あの二人でなく、私をさらったの?」
「単純に一人の方が楽だった。あと僕の計画の事より、サーカス団の事を知ってるミリエラを残す方が怖かった」
ノエルの長い前髪から、何度目かの雫が落ちた。外で馬車を走らせていた彼は、まだ身体を拭いていない。しかしそれを気にもしていないようだった。
「君は不安要素なんだ。だから帰せない」
「あなたの事は黙っておくから、と言っても?」
「ごめん」
ミリエラは俯いた。
「あなたからハンカチを見せられなければ、私きっと気づかなかったわ。だって男の子だったなんて本当に思いもよらなかったんだもの」
「ごめん、でも」
「でも気づかなければ、私は一生『ノエル』と会うこともなかったのね」
ミリエラが涙ぐむ。ここまでずっと泣かなかった彼女が、初めて肩を震わせ目を潤ませていた。
「私、あなたにもう一度会えたことは、嬉しいの」
「ミリエラ……」
「だからこそ、悔しいわ」
ミリエラの膝に、大粒の雫がいくつも落ちた。




