32.占い師との邂逅
「残念だけど今日は時間切れだな」
「え?」
「外にまだ並んでる人もいるし」
もう15分をこえてしまったろうか。ミリエラが懐中時計を取り出してテーブルの上のランプにかざすと、そろそろ入って15分になろうかという時間だった。
ノエルは少し屈んで、柔らかな低音の声で囁く。
「明日またこの時間にここに来て。店は開けずに待ってる」
「え……。ええ」
「絶対だよ、ミリエラ」
懐かしさと戸惑いが、同時に押し寄せてくる。整理のつかない感情を抱えて、ミリエラは占い師の館を後にした。
翌日は一日中、音も立てず細い雨が空から落ちる日だった。
窓の外の雨だれを見つめながら、ミリエラは突然雨の中に傘も差さずに飛び出したい気持ちになる。何と説明していいのか分からない衝動。
顔を合わせた時のノエルの潤んだ瞳や震えていた唇に、嘘はない。根拠は無いが、彼女は昨日そう感じた。
(でも、男の子だったなんて聞いてないわ)
昨日からため息が止まらず、表情もまるで百面相だ。
十歳そこそこの子どもなら、女の子の服を着せてしまえばそう見えてしまうものかもしれない。ましてノエルは、たおやかに舞っていた踊り子だったのだ。男の子だと気づく方がおかしい。
(そうだ、踊り……。まだやっているのかしら)
待っていた放課後になり、ミリエラはすぐに立ち上がった。課題をやってから帰るというアンに挨拶し、教室を出る。
校舎を出る時に傘を開き、東にある校門へ向かう。
今日は雨だからか、皆外出せずに西門から学生寮に帰るのだろう。東の校門はほとんど人気がなかった。
「こんにちは、待ってたよ」
昨日と同じく商店街を抜け、占い師の館に着いた。出迎えてくれたノエルが傘を受け取り、壁に立て掛ける。
学校を出てから十分程しか掛からない場所なので、さして遠くはない。しかし今日は切れ間なく雨が降っているせいで、商店街に学生の姿はなかった。
「ミリエラ、ここは少し冷えるから奥に行こう」
布のかかった小屋のような占い師の館は、その後ろにある民家と直接ドアで繋がっていた。元は露店として八百屋を開いていた場所に、それらしい小屋をつけて改良された店舗のようだ。
奥の民家はこじんまりとしているが至って普通の作りで、小さなキッチン付きの二階建てだった。
ミリエラは初めて見る平民の民家をしげしげと見渡している。すすめられた椅子に座り、鞄を置いてもまだ視線は忙しない。
「ノエル、ここに住んでいるの?」
「うん。今年のはじめ頃から」
彼女に背中を向けて、ノエルはお湯を沸かしていた。
身長は、アレクシス程だろうか。レオンやエドモント程高くはない。昨日と違って茶色の簡素なシャツとズボンだけの姿なので、後ろ姿はごく普通の青年だ。
ノエルはダイニングテーブルにカップを二客置き、ティーポットを持ってくる。服装はとても簡素だしティーセットも高価なものではない。なのに紅茶を注ぐノエルは優雅で上品で、ミリエラは背筋を伸ばした。
「あのね、ノエル」
ミリエラは置いた鞄から小さな皮の袋を取り出した。そのボタンを外すと、中から現れたのは小さな銀色のブレスレットだ。
「わ、懐かしい!これ僕が王宮で上げたやつだよね?」
「そうよ。大事にしていたんだから」
良かった。覚えていた。
どうしても拭えなかった疑いの尻尾がその言葉で消えた。子どものように輝く目でブレスレットを自分の手首に当てるノエル。彼はそれを嵌めようとして、苦笑した。
「見てこれ。細すぎてもう入らないや」
銀色の輪には、小さな緋色のガラス玉が散りばめられている。華奢なそれは確かにノエルの手には小さくて嵌まらない。
「ノエルの手、男の人にしては細いのに」
「あれから五年、いや六年?それだけ経ってるんだもん。背だってミリエラより随分高くなったし、やっぱり昔とは違うよ」
「そうかしら」
ミリエラつけてみてよ、と銀の輪を手渡される。もらってしばらくは思い出すたび引っ張り出してつけていたが、いつしかそれもしなくなっていた。
久しぶりにそこに手を通すと、少しつっかえたが銀の輪は彼女の手首を彩った。
「今見ると、やっぱり安っぽいね。あの頃はミリエラに似合うと思ってたんだけどなあ」
「まあ。今は似合ってないのかしら?」
「そうじゃなくって。高貴なお姫様の君には、本物の宝石を使ったアクセサリーの方が相応しいってことさ」
テーブルに両肘をついて、ノエルが淡い笑みで応えた。
ノエルは大人になった。それは自分も一緒で、二人ともあれから背も伸びたし実際年も重ねた。
しかしノエルの表情や所作は、自分よりも更に大人に見える。例えばクラスメイトの男子生徒やアレクシスといった同年代の青年よりも。
「何だか、ノエルがすごく年上になってしまった気分だわ。どうしてかしら?」
「もう仕事して、一人で暮らしてるからかな」
なるほど。ミリエラは合点が行く。
出会った時のノエルも踊り子という仕事をしていたけれど、あれはサーカス団の一員で大人の庇護があった。
「サーカスはやめたの?あと、踊りも」
黒髪を揺らしてノエルは首を振った。
「踊りは仕事にはならなくなったけれど、忘れないように身体は動かしてるよ。今踊れって言われたらここでも踊れる」
「まあ」
おどけてウィンクするノエルに、ミリエラが吹き出す。
「サーカス団は常に僕のような身寄りのない子どもを引き取り育てているけど、本団員になれるのは多くはないんだ。僕も団員の占い師に占いを教えてもらって、去年独立したところさ」
「そういえば、サーカスの時に水晶を使う占い師を見たわ」
「そうそう。その人だよ」
サーカス小屋付近の露店でも王宮での催しの時も、大きな水晶をテーブルに据えた占い師は大人気だった。占い師は、都市部では簡単に開業できて生計を立てられる職の一つらしい。
「あの踊り子もね。半分は男の子だったんだよ?」
「えっ?!」
昨日の衝撃、再び。
いちいち目を見開くミリエラに、ノエルは本当に楽しそうだった。
「そっか、それも気づいてなかったのか。あれは子どものうちだけやれる仕事だから、男も女も子どもの間はみんな踊り子なんだよ」
「昨日から、びっくりしどおしだわ」
「僕もミリエラに気づいた時、すごくびっくりしたけどね」
彼の話を聞きながらぬるくなった紅茶を口にすると、甘い香りが鼻に抜けた。
昔と変わらない気安いノエルの態度に、ミリエラの口調も随分砕けていた。まだまだ話は尽きなかったが、不意に雨音が耳につく。
窓の外は雨のせいで元々薄暗かったが、次第に夜が迫っているのか暗さが増していた。
「そろそろ帰らないと。ねえノエル、また遊びに来てもいいかしら?」
「もうそんな時間か」
ノエルが立ち上がるのを見て、ミリエラも立ち上がった。雨は降り続いているが今なら暗くなりきらないうちに帰れるだろう。
礼を言おうと顔を上げた時、ノエルは思いの外近くに立っていた。
見下ろす黒い瞳に吸い込まれそうだ。
見つめ合った一瞬の後、突然ノエルの手がミリエラの手首をきつく捕らえた。
「いたっ」
「ミリエラ」
これまで生きてきて、こんなに強く身体を掴まれた事がない。痛みに思わず腕を引こうとしたが、ノエルの手はびくともしなかった。
ミリエラは何度か引こうと試みた後、諦めて力を抜いた。しかし掴むノエルの手が弱まることはない。
「ノエル……。離して」
「ミリエラにひどい事はしたくないんだ。おとなしく言うことを聞いてくれたら、乱暴な事はしないから」
だから座って。
呟いたノエルは、静かに痛みを耐えるような目をしていた。




