23.叔父さまにお小言
よく手入れされた庭に調和するように、細長い三階建の学生寮がいくつか並んでいる。夜の帳が降りた頃、学生寮のちいさな部屋でミリエラはしかめっ面をしていた。
険しい顔で真新しいシーツを掛けたベッドに乗り上がり、枕を抱えてふてくされている。
頭の中に浮かぶのは、昼間のレオンと白銀の少女だった。
ミリエラがこれまでレオンと会うのは、自分のテリトリーでのみだった。たとえば出かける時でも、レオンはミリエラの同行者だった。
そんなレオンが今日教室に入ってきた時、聞こえたのは女生徒達の色のついたざわめきだった。アンと見つめ合う姿には、さらに好奇を含んだ黄色い声も上がっていた。
叔父さまは他の女の子と会話するし、見つめ合う事もある。
それは当たり前の事なのに、今日初めてそれを見たミリエラはどうしようもなく動揺していた。
抱えた枕に頭を埋めたり上げたりを繰り返しながら、混乱した頭を落ち着かせようと努める。しかし何故か目頭が熱くなってきていよいよ困ってしまう。
(どうしよう。叔父さまの事を考えるといつもは幸せなのに)
今はレオンの事を考えるだけで、胸のあたりから鼻の頭にかけてムズムズした何かが沸き上がる。それが苦しくて頭からレオンの姿を追い出そうとすると、いよいよ彼の姿が頭の中を占める。
それに、とミリエラは思う。教室でレオンは「また後で会いに行くよ」と言ったのに現れなかった。今日と言われたわけでもないし、キチンと約束したわけでもないのだが。
しかし、今日はレオンと会って話をしたかった。
ミリエラは枕を抱えたまま横に倒れ、そのまま瞳を閉じた。
「それは、嫉妬ですわ」
ミリエラは、電流が走ったように硬直した。
「アネッサ、本当に?」
「間違いありません」
「嘘でしょう。これがあの、嫉妬だというの」
恋愛小説では、読んだことのある感情だ。
しかしそれは愛しい想いを募らせる相手に、仲の良い女性が現れた時わくものだったはず。
「あの方は、叔父さまと深い仲でもなさそうなのに?」
「それでもよ、ミリエラ様」
ワナワナと震えながら、朝日で明るい食堂でミリエラは朝食を摂っていた。話の内容が内容なので、今日はミリエラの声もアネッサのそれと同じ音量である。
ミリエラの横でパンを口に入れながら、アネッサはため息をついた。
「エドモント様が、昨日寮の談話室まで会いに来てくださったんです。私嬉しくて、呼び出されてすぐに部屋を出たのですが」
「どうかしたの?」
「談話室にいたエドモント様の周りに、それはもう沢山の女性がいらしたんです。エドモント様のお姿が見えないくらいに囲まれてました」
オレンジジュースを口に運ぶアネッサは、心なしか声の音量が普段より大きくなっているようだ。
「エドモント様は明るくて楽しいお方ですし、人気者だとは聞いておりましたけど。女子寮の談話室に来てすぐにあんな沢山の女性に囲まれるだなんて」
「お、落ち着いて?アネッサ」
「特定の方とでなくても、好きな人が女性と接するだけでもやもやしてしまう。好きな人が悪くないと分かっていても腹が立ってしまう。それが嫉妬ですのよ」
「なんて厄介なの……」
始業式の日には相応しくない陰鬱な表情で二人は俯いた。
入学式と同じホールで、始業式は行われた。
昨日と違って在校生全員が揃うホールは少し暑く、不満を囁く生徒の声がしばしば聞こえてくる。不満のざわめきが目立ってきた頃、式の締めの挨拶が生徒たちを解放した。
ホールから教室に戻る道すがら、ミリエラはそっと横に並んだ少女に声をかけられた。
「おはよう、ミリエラ」
「おはよう、アン」
アンは人懐っこい笑みを浮かべ、ミリエラの横を歩く。
あっ、と小さく声を漏らしたミリエラは、形のいい唇に指をあてながらアンに柔らかく微笑んだ。
「昨日はお名前しか仰ってくれないから、寮監にあなたの事伺いましたの。ジュレディンベル男爵のご息女でしたのね」
「あ、言ってなかったかしら」
ミリエラに合わせて、アンもにこやかに答えた。
ハンス・メルツ=ジュレディンベル男爵の二女。
それがアンの出自である。
ここレンダルハス王国の南の国境に近い領地を持ち、代々その地を治めるジュレディンベル男爵。代々武勇に優れた領主を輩出しているジュレディンベル男爵家だが、中央に出向く事は年一度の議会以外ほとんど無い貴族だった。
かつては危険の多かった南の国境。その守備の一端を担うジュレディンベル男爵のような家はいくつかあり、男爵とはいえ中央からの信頼も厚い。ただ、歴史の浅い貴族などはそれを知らない者もいるのが現状だ。
それらの話を寮監から聞いたと、ミリエラはアンに語った。
「昔はともかく平和な今のご時世だと田舎の一領主って感じだし、自分から言い回るものでもないから」
そう言ってアンが可愛らしく肩を竦める。ミリエラはアンの苦笑する顔を見ながら、ゆっくりと言った。
「アンは慎み深いのね。それは美徳でもあるけれど」
アンの翠の瞳がミリエラを映す。
「ジュレディンベル男爵家の何代にも渡るお働きはとても誉れ高いものですわ。卑下した言い方をしては駄目よ?」
諌めるように言ったミリエラだったが、そのあとすぐにまた柔らかな笑顔に戻った。
一瞬、アンの頬にふわりと色が浮かぶ。
彼女は薄赤い頬のままこくんと頷いて、前を向いた。
「うん。ミリエラの言うとおりね」
教室に戻ったものの、明日からのカリキュラムや注意事項などは昨日のうちに一通り終わっている。担当教諭のカヴァン先生は優しそうな初老の女性で、彼女は「今日はこれで終わりますが、みなさん帰る前に学校の各施設を見回ってみてくださいな」と言って教室を出た。
鞄を持ったミリエラは、アンやその他のクラスメイトに律儀に挨拶を交わしながら急いで教室を出る。
生徒がまばらに下校する校舎を抜けて、彼女はキョロキョロ歩いていた。
「ミリエラ」
「叔父さま!」
前方から生徒の波を抜けこちらに歩いてくるのは、レオンだ。
ミリエラはホッと息を吐いて、早足でレオンのそばに進む。
「叔父さまに会いたくて、職員室を探していましたの」
「そっか。会えてよかった」
後ろ暗さもなく笑うレオンを見て、ミリエラは頬を膨らます。
人の気も知らないで。そう思ったが口には出さなかった。
食堂に連れて行かれたミリエラは、ここでもキョロキョロと辺りを見回していた。寮の食堂に比べるとテーブルも部屋自体も大きくて、広い。
レオンは飲み物の並ぶコーナーでオレンジジュースを二つ注ぎ、それを持って椅子に座った。
「昨日はごめんね。ちょっと急いでて」
苦笑しながら、レオンはジュースをミリエラの前に押し出す。慣れた風体で食堂を使うレオンに、ミリエラは何だか少し寂しくなる。
「もしかしたらもう気がついてるかもしれないけど、あんころもち子さんは、前の僕と同じ世界で生きてた人だ。『ゲーム』のヒロインだよ」
「やっぱり」
とすると、先程アンに家への誇りを説いたのは見当違いだったかしら。ミリエラはそんな事を考えた。
「彼女がこれからどう生きていきたいのか、何をしたいか、あまり詳しい話は出来なかったけど」
「はい」
「ミリエラとやり合う気はない。って言ってくれたよ」
レオンが、心の底からホッとしているのが分かる声で言った。
それを聞いてミリエラも胸を撫で下ろす。
最近は忘れかけることもあったし、入学式前に念を押された時も軽く頷いたけれど。やっぱり、『ゲームのヒロイン』と出会うのは怖かった。
いくらレオンの言うとおりにしてきても、王子との婚約を回避しても、ずっと不安は澱のように心の底にあったのだ。
「よかった。本当に」
安心したミリエラは、独り言のように呟いた。
そうして心の重石が一つ外れたミリエラが、がばりと頭を上げる。不思議そうな顔をしたレオンの方に身を乗り出すと、彼女は目をジトッと細める。
「叔父さま。昨日、後で会いに来るって仰ったわよね」
「え?」
「どうして昨日、会いに来て下さらなかったの?」
「あ、いや、別にすぐに行くとは……」
「お兄様は、アネッサに会いに来てましたわ」
拗ねたように口を尖らせたミリエラを、キョトンとした顔で見るレオン。彼はすぐに破顔して、身を乗り出すとミリエラの頭を撫でた。
「昨日行かなくてごめん」
「今回は許しますわ」
「うん」
「次は気をつけてくださいませ」
「分かった」
レオンの返答を聞いたミリエラは納得した顔でうなずく。それからホッとしたように残りのオレンジジュースを飲み干した。




