18.王子様の来襲
屋敷の中庭は、夏前の明るい陽射しと青葉の香りに満ちている。そこにある白で統一されたテラスはミリエラお気に入りの場所だ。レオンのあの叫びをここで聞いたのも、同じ青葉の季節だった。
かつては午後のティータイムといえば、ケーキスタンドに大量のお菓子を載せて貪っていたミリエラだった。しかし年頃となった今、甘い物の大量摂取は体型にもお肌にも悪いと知って控えている。
そんなミリエラが、メリサが注ぐ紅茶を見ながらスンと鼻を鳴らす。
「何かしら?甘い香りがするわ」
「お気づきになりましたか。これはフレーバーティーというそうですよ。最近流行っているらしくて、先日通いの業者が試しにとくれたんですって」
「そうなの。とても甘い……りんごかしら?」
「たしかりんごの香りだと聞きました」
甘い香りに笑みをこぼしながらカップに口をつけようとしたその時。中庭に出入りする扉からメイドが顔を出した。
「お嬢様、お客様でございます」
「今日はお客様の予定はないはずよ」
首を傾げてメリサとジュディを見ると、二人ともコクコクと頷いている。メイドは焦ったように扉の内に何度も目をやる。
「あの、アレクシス殿下が、ご挨拶をと」
母や子どもたちが客を迎える時用の応接間に、ミリエラは入る。屋敷に呼ぶ友人はアネッサだけだし彼女は直接ミリエラの部屋に来る為、ミリエラがこの部屋を利用するのはごく稀だった。
繊細な柄の布張りのソファーに腰を下ろすアレクシス。ミリエラは後ろに立つ王子の侍従に一礼し、彼の横に立った。
「ご無沙汰いたしております。スケートの時以来ですわね。あの時はスケートを教えてくださり、ありがとうございました」
「ああ」
「お知らせ下さっていれば、おもてなしもできましたのに」
「たまたま近くを通ったから寄っただけだ」
ミリエラは言外に「来るなら先に言っておいてくれ」との意味を込めたのだが、伝わっているかは怪しい。
彼がその後何も言わないので、ミリエラはソファーに腰掛けた。
向かい合う二人の前にソーサーとカップが置かれ、紅茶が注がれる。普段通りの紅茶の香りに、ミリエラは少々がっかりした。
「この前、誕生日だったんだってな」
この前?とミリエラは首をひねる。この前と言っても、自分の誕生日はもう一ヶ月以上前のことになる。それを言うと、アレクシスは眉間にシワを寄せた。
「エドに聞いたのがついこの間だったんだ」
「そうですか」
「どうして誕生日のパーティーを開かない」
「我が家では節目の誕生日にしかお客様を招くパーティーはいたしませんの。兄もそうですわ」
紅茶に口をつけながら、再びアレクシスが眉間にシワを作る。自分が茶を淹れた訳でもないのに、ジュディが身震いした。
「先週のバースタイン伯爵家のパーティーにもいなかったな」
「はい。断っても構わないものだと聞きましたもので」
公爵家令嬢であり来年には王立学院に入学するためか、近頃ひっきりなしにパーティーの招待が来る。ミリエラは相談役も兼ねている家庭教師のツバルス先生に取捨選択を相談し、行けないものには断りを入れていた。
それにしても、アレクシスの会話の本筋が見えない。彼が一体何を言いたいのか何故パーティーの話をしているのかが分からないし、何だか責められているようだ。
ため息をつくアレクシスは、王子としての気品に溢れている。しかし彼はいつも不機嫌そうだ。スケートを共に滑っている時だけはそうでもなかったけれど。
要領を得ない会話にミリエラは痺れを切らした。
「殿下。殿下は私に人付き合いが悪いと言いにいらしたの?」
「いや。そうじゃない」
はじめてアレクシスがミリエラを正面から見た。不機嫌な仮面が少し剥がれ、口を開けて何か言おうと逡巡している。
一呼吸置いて、彼は静かな声で尋ねた。
「お前の目からは、私はどういう人間に見える」
「殿下が、ですか……」
チラリと後ろに控えている王子の侍従に目を向ける。もしここで好き勝手言った末に不敬を咎められたら。この方々に捕らえられたりしないかしら。
そんなミリエラに、アレクシスはフンと鼻で笑った。
「何を言ってもお前の思うようなことにはならん」
「まだ何も言ってません」
「お前の考えていることは分かりやすい」
それでは、と紅茶を飲み、ミリエラは口を開いた。
「殿下はいつも不機嫌そうに見えます。近づきがたく思いますわ」
「それで?」
「もし理由もなくそんな風にしているのなら、直したほうがよろしいかと。ですが何か理由があるんじゃないかしら」
ほう、とアレクシスが息をつくように呟いた。
「どんな理由だ」
「そうですわね。近づきがたくしているのは、近寄ってほしくないからでしょう。殿下は人に囲まれたくないと思ってらっしゃる」
ミリエラはそこで、閃いた。先程まで渋い顔をしていたのがぱっと晴れやかな顔に変わる。
「地位やら容姿やらに寄ってこられるのが嫌なのですね?なるほど、だから王宮でお会いしたときもあんなお話をされていたのだわ」
そうだそうだ。と自分の閃きに悦に入るミリエラ。アレクシスは黙ってそれを聞いていたが、否定することはなかった。
「大丈夫ですわ、殿下」
「何がだ?」
「そのうち、きっと殿下を真っ直ぐに見てくれる女性は現れます」
必ず、とは付けなかった。
叔父さまが教えてくれた『ゲーム』によれば、ヒロインは五人の男性と学院で共に過ごすうちに、その中の一人に恋をする。たしかその男性陣の中でも、王子と恋に落ちるのが有力だったはずだ。
もし万が一恋に落ちなかったとしても。ヒロインと出会い親しくなるだけでも、アレクシスの救いになるのではないだろうか。
だってヒロインだもの。
「適当なことを言うな」
「断言はできません。でも女性に失望して“どうでもいい相手”と婚約するよりは、本来の殿下を見てくれる方を探すほうが有意義ですわ」
にっ、とミリエラが笑った。
きっと『ゲーム』どおりの世界では、この王子様はそんな理由で私と婚約したのだろう。そうでないと他人に嫌がらせをした挙句に牢屋に入る女の子と婚約するはずが無い。
ミリエラは疑問の一つが解決して、自然と朗らかになった。
「権威や容姿に集る人々に疲れたら、私の兄に愚痴を漏らせばよいのです。私も嫌なことがあったらお友達のアネッサに話を聞いてもらいますのよ」
「エドに愚痴をこぼすと、余計に後で疲れそうだな」
「ああ……。それは否定できませんわ」
ミリエラは兄の姿を思い浮かべながら、ふうっと息をつく。
確かに彼は人の愚痴や悩みを聞くのに適した人材ではないと思えた。力いっぱい励ましてはくれそうだが。
「仕方ない。お前で我慢してやる」
「何がです?」
「愚痴の聞き役だ」
至って真面目な顔のアレクシスを、凝視する。
「私と殿下はお友達ではありませんし、やはりその役は兄に……」
「では、お前も私の友達にしてやろう」
いや、そういう事じゃない。
ミリエラは、何故そんな事をせねばならぬのかと言い返すつもりだった。だが、友達にしてやろうと言ったアレクシスの耳朶がほんのり色づいているのを見てしまった。あの寒空の下のスケートでもほとんど顔色を変えなかったのに。
仕方ない。愚痴くらいは聞いて差し上げよう。
「光栄に存じます。殿下は私の三人目のお友達ですわ」
「ほう。エドの婚約者と、あとは誰だ」
「もう五年ほど前でしょうか。以前この町に来たサーカス団の、踊り子です。王宮にも呼ばれたサーカス団だったのですが、殿下はご覧になりましたかしら。とても素敵な舞でしたのよ」
アレクシスは形のいい顎に指をかけて考える。伏せたまつ毛すら美しいんだな、と紅茶を飲みながら眺めるミリエラ。
「王宮ではそのような催しは珍しくないからな」
「そうでしたわね」
素っ気なく返したアレクシスに、そういえばそうだったと思い出す。当時もそうだが、今も王宮はそういった類を招き入れることが多い。
こうして、ミリエラはアレクシス王子の友人となった。