16.王子様の疑問
「私はお前が思うような、自己愛の強い男なわけじゃない!」
静謐な室内に、王子の声が響く。
王子は激昂してるが、並んだ侍従達は特に動く気配がない。
この程度のお怒りは日常茶飯事なのかもしれない。
壁に控える侍従達を眺めながら、ミリエラはそんな事を思った。
そもそもアレクシス王子はミリエラより一つ年上の十四歳だったはずだが、彼女からするとどうにも子どもっぽく見えた。挨拶もせずにぶすくれるところだとか、いきなり突っかかるところだとか、急に顔を真っ赤にして怒り出すところとか。
(私はそんなの、とっくに卒業しましたわ)
「おい、お前今何を考えている」
「特に何も」
「嘘をつけ!」
しれっとした顔のミリエラを、アレクシスが真っ赤になって糾弾した。こういうところが子どもっぽいなとしみじみ思う。
「お気に触ったのなら、失礼いたしました」
「変な女どころか、腹の立つ女だな」
「では失礼ついでにお聞きしてよろしいでしょうか。何故私の想い人が、殿下に容姿で勝っているとお考えになるのでしょう?」
痛いところをほじくり返している気がするが、ミリエラとしてはアレクシスがどういう経緯でその考えに至ったのかが気になった。
アレクシスがごほんと咳払いをすると、侍従が紅茶を淹れなおす。温かいそれを一口飲み、アレクシスはつまらなそうに応えた。
「簡単なことだ。お前は公爵家の娘だから、お前にとっては私以上に高貴な血筋の人間はいない。それなのに断るということは、余程の美丈夫に心を奪われたのだろう?」
先程の意趣返しにしては、相当な侮辱だった。
いや。言い放った後何の感慨も抱いてなさそうなアレクシスの顔を見ると、侮辱している意識すらないのかも知れない。
「私の想い人は、私にとっては誰よりも素敵なお方です」
「ほう」
「ですが容姿は殿下のほうがお美しいでしょう」
「では、何が勝っているんだ?」
そう訊かれて、ミリエラはアレクシスの瞳をしっかり見返した。この部屋に入ってから初めて、ミリエラの顔に本来の柔らかな笑みが灯る。
「殿下には、分かりませんわ」
帰りの馬車の中では、重苦しい空気が漂っていた。狭いだけに密度の濃い重苦しさがのしかかる。ミリエラは前に座る母に頭を下げた。
「お母様、ごめんなさい」
「断るのは仕方ないとして、なぜ殿下を怒らせる必要があるの」
「本当にごめんなさい」
公爵夫人はため息を漏らし、細い片手で頭を支えた。
あの後母とキャンベル夫人が戻りお開きになったのだが、アレクシス王子は二人と入れ替わるように部屋を出ていってしまった。ミリエラはその場でキャンベル夫人に断りの旨を伝え、それは問題なく承諾された。
母には悪いとは思うが、未来の牢屋生活云々を抜きにしても、ミリエラにはあの王子との婚約は考えられなかった。
ふと、レオンの冊子に書かれていた『ゲーム』のことを思い出す。
もしも『ゲーム』での未来を知らなければ、私はあのアレクシス王子に恋い焦がれて他人に嫌がらせをしていたのか。その時の私は、彼のどこに惹かれていたのだろう。容姿だろうか、位だろうか。
そして私を婚約者に据えていた王子は、一体何を気に入って婚約したのだろう。
「もしも、を考えても仕方がないわ」
見知った風景を馬車の窓から眺めながら、ミリエラはポツリと呟いた。
アレクシス王子と王宮で顔を合わせてから一月程経ち、チラホラと雪が舞う日々が続く。
そんなある日、ミリエラはアネッサの別荘に招待された。
“湖畔に佇む別荘でスケートを楽しみましょう”という手紙を貰ったミリエラは、メリサを捕まえてはしゃぐ。
「湖でのスケートですって!私初めてなのよ。うまく滑れるかしら。どんな格好で行けばいいのかアネッサに聞かなくちゃ」
手紙を持ったまま部屋の中をウロウロし、温かい外着を探しに自ら衣装小部屋に入っていくミリエラを、メリサが追いかけた。衣装はアネッサと色が被らないようにして、動きやすい格好で、と考えるだけで楽しい。
返事をして早々に日程が決まり、アネッサが迎えに来ることになった。
「ごきげんよう、ミリエラ様」
「お誘いありがとう。楽しみにしてましたの」
北上するうちに、馬車の中にも寒さが染み込んでくるような日だったが、少女たちはスケートの話に花が咲き気にもならなかった。
スケートと言えば、ミリエラ達がよく読む恋愛小説にもたびたび出てくる遊戯だ。これまで気にはなっていたものの、ミリエラはまだ未経験だった。平民の、もしくは男の子の遊びといったふうに世間でも捉えられているせいかもしれない。
馬車が湖畔の瀟洒な館に着いた。
外は寒いが薄雲の切れ間から陽は差している。照り返しも少なく、ちょうどいいお天気ですわ、とアネッサが微笑んだ。
「実はね、ミリエラ様。今日はエドモント様もお誘いしているの」
普段より更に顔を寄せて、アネッサが囁いた。
その頬は柔らかな朱に染まり、寒さのせいではないのが分かる。アネッサの嬉しそうな顔につられて、ミリエラも笑顔になった。
「叔父さまもいらしてくれたら嬉しいのに」
スケート靴を履かせてもらいながら、ミリエラはぷっと頬を膨らませた。この冬は教員養成学校の卒業試験と論文があり、レオンは公爵家に顔も出していないのだ。
むくれるミリエラにアネッサは苦笑する。そしてその顔を上げると、遠くからやってくる馬車に目を留めた。
「おはよう!アネッサ!ミリエラ!」
湖近くの靴履き場に停まった馬車から、大声とともにエドモントが顔を出した。タラップに足をかけて降りてくるエドモントを見て、ミリエラは思う。
(また大きくなってらっしゃる……)
最近のエドモントは成長期なのか、ぐんぐん背が伸びて身体が大きくなっている。勉学を疎かにしないよう父から厳しく言われているものの、剣の稽古は欠かさないため、身体が同年代の生徒よりも大きいらしい。
そんなエドモントを見るアネッサの目は輝いているので、アネッサとしては喜ばしい成長なのかもしれない。
「……寒いな」
降りてきたエドモントの後ろから現れた影に、ミリエラは目を瞬かせる。予想もしていなかったのだ。まさかこんなところで会うとは。
「同級のアレクシス殿下だ!ミリエラは知ってるだろう!スケートに行くと言ったら羨ましそうにしてたから誘ったんだ!」
「羨ましそうにはしてない」
なら、なんで来た。
ミリエラはそう突っ込まずにはいられなかった。
密かに、心の中で。
王子との経緯をエドモントにもアネッサにも話していなかった事が悔やまれた。アネッサはやっと会えたエドモントに付きっきりになってしまった。エドモントもそんなアネッサの手を引き、氷上を動き回っている。
これでは、余りもののミリエラが王子様のお相手をしなければならない。
チラリとアレクシスを見やると、彼は履いたスケート靴をトントンと氷上で慣らしていた。
甘いながらも作り物めいた美しい顔と、スラリとした手足と、それを包む濃紺のロングコート。それが足下に広がる氷面に映え、お伽話の王子様のようにも思えた。
「殿下は、スケートしたことはおありですか?」
「ああ。毎年な」
一月ほど前に割と気まずい別れ方をしたと思うのだが、返事はしてくれた。質問には答える律儀な性格なのだろうか。
ミリエラはスケート靴を履いた足をそっと氷上に踏み出すと、恐る恐る二歩三歩と歩いてみた。
足元がヌルヌルしている。動くとぬめって転んでしまいそうだ。目を上げるとエドモントがアネッサの両手を引きながら、器用に後ろ向きで滑っている。
兄とその婚約者の邪魔はしたくない。ただ、来るなら来るとはじめに教えてて欲しかった。なんだか寂しい。
「おい」
トン、と肩を押される。
「ひああっ」
ミリエラは両手をブンブンと振り回して何とかバランスを取り、踏ん張ることに成功した。その姿勢のまま、ギンッと後ろを睨みつける。
「何をなさるの!転けてしまうじゃありませんか!」
「スケートは初めてか」
アレクシスが随分不機嫌そうに聞いてくる。
踏ん張った姿勢で動けないミリエラは、苦々しく返した。
「ご覧の通り初めてでございます。慣れるまでは端で練習いたしますわ」
「それじゃ上手くならん」
軽やかに目の前に滑り込んだかと思うと、アレクシスはミリエラの手袋をはめた手を取った。ぐらりと揺れて再び踏ん張るミリエラに、アレクシスがもう一方の手も取って後ろ体重で支える。
「手を支えにして真っ直ぐ立ってみろ」
「いえ、あの」
「別にお前の為にやってるんじゃない。お前がそんなだとエドがお前を気にして楽しめないだろう」
いや、かなりアネッサと共に楽しんでいるように見える。さっきまで疎外感を感じていたほどに。
そう言おうとアレクシスの顔を見たが、彼は早くも後ろ向きでゆっくり進もうとしていた為、口にすることはできなかった。
湖の中央近くで凄いスピードを出しているエドモントと違って、アレクシスは緩い速度で外周をゆっくり周っていた。両手を持たなくても動けるようになったミリエラは、片手だけアレクシスにあずけて併走する。
元々運動が嫌いではないミリエラは、すぐにバランスを取れるようになった。
「スケートって不思議ですわ。ただ滑って進んでいるだけなのに、どうして楽しいのかしら」
「さあな」
「殿下も楽しいから毎年なさるのでしょう?」
「まあな」
「殿下。お手をありがとうございました。私一人で滑ってみますわ」
スイッと止まったアレクシスは、手を繋いだままミリエラと向き合った。
ミリエラはかなり息が上がり鼻の頭も赤くなっているが、アレクシスの白磁の肌は全く色を変えていない。すごいものだとミリエラが眺めていると、アレクシスは視線を逸らしながら彼女に問いかけた。
「お前は、私には分からないと言ったな」
「えっと。何がです?」
「お前の想い人が私に勝るものが、だ」
ああ、そのこと。
合点のいった顔で頷いたミリエラは、アレクシスの白い顔を見つめた。今日はスケートを教えてもらったし、お礼に真面目に答えよう。
彼女はスッと空いた方の手を上げた。遠くで滑っているエドモントとアネッサを指す。
「アネッサは、兄の婚約者である事をとても喜んでいます」
「そうだろうな」
「生まれた時から決まっていた婚約ですが、アネッサは兄に会ってこの婚約に感謝したそうです」
ミリエラの二人を眺める目は優しい。
「エドは公爵家嫡男だし、見目も悪くない」
「アネッサは小さな声しか出せない自分に劣等感を持っていました。だからでしょうか。初めて会ったとき、声が大きく自信満々な兄がとても素敵に見えたんですって」
クスクスとミリエラは笑う。
「そして兄がアネッサの言うことを注意深く聞くようになって、更に愛しく思ったそうです。素敵でしょう」
「それは、好ましい偶然だな」
「ええ、偶然です。だけどアネッサは実際の兄を知って兄に恋した。兄もアネッサの小さな声を聞くようになって、彼女とより親しくなりました」
握ったままの左手をぎゅっと掴み、アレクシスはミリエラを睨むように見据えた。どうやら彼は苛ついているようだ。手袋の中の手のひらにじんわり汗が滲んできたミリエラは、そろそろ離してもらえないかと考えていた。
「それがさっきの話とどう関係するんだ」
「アネッサも兄もお互いの事を知り、気持ちを深めたのです。その事と比べて地位や容姿で判断することはとても浅く思いますわ」
「お前は、私より自分の想い人の方が人格者だと言いたいのか?」
「いいえ。私は殿下のことをまだ何も知りません。ですから本当のところ勝ち負けという明確な判断はつけられません」
寒いからそろそろ解放してほしい。ミリエラはその意味を込めて握られていた手をそっと抜いた。
「だけど私は彼のことを知り、その上でお慕いしています。ですから私の中では彼が一番なのです」




