13.お兄様の婚約者
今日はミリエラの誕生日食事会だったはずなのだが、兄の『留年ショック』が大きすぎて早々に会はお開きとなった。ミリエラ自身も驚きが許容量を突破していたせいで、特に残念がるでもなく淡々と食堂を後にする。
ちなみに今年の誕生日は父からは大量の赤い薔薇、母からは以前仕立て屋を呼んで作ってもらった赤紫のドレス、兄からは最近出版された恋愛小説が贈られた。
三日前に家を出たレオンは、出ていく直前に今年もマンガを渡してくれていた。今回は革張りの表紙に加えて中表紙に薄紙を使い、ページを綴る紐も上手く隠していて本当に売っている本みたいだ。バート曰く唸りながらどんな話にするかを考え、そこから一ヶ月かけて描いていたらしい。
まだ寝るには早い時間。母に貰ったドレスに併せる小物を考えようか兄からの小説を読んでみようかと思っていると、ノックが聞こえてきた。
ドアに近いマイユが対応し、振り向いて「アネッサ様がいらっしゃいました」と報告する。ミリエラは持っていた小説を戻して頷いた。
「先程はあまりお話できなかったので、いらしてくれて嬉しいわ」
ミリエラが笑顔でアネッサにソファーを勧める。
客人にカモミールティーを差し出しながら、侍女のメリサは侯爵家令嬢をそっと窺い見た。
ミリエラと同い年らしいが、小柄だからか少し幼く見える。緩く編まれた栗色の髪は柔らかそうだし、丸い頬も柔らかそうだ。
髪と同じ栗色の瞳の先は、落ち着きなくテーブル上を行ったり来たりしている。アネッサに付いてきた侍女にも主人の緊張が伝わっているみたいで、侍女も落ち着きなく身動ぎしていた。
「……あ、の」
「はい」
意を決したように口を開いたアネッサを見ながら、ミリエラも返事をした。急がせないように、ひと呼吸置いて。
しかしそれ以上の勇気が出なかったのか、アネッサは自分の侍女の方に助けを求める視線を投げた。
「恐れながらミリエラ様。主人のアネッサは、その、少し声が小さくてですね。宜しければもう少しお近くでお話をできたら、と」
「あら」
「………………」
「ええ、構いませんわ。メリサ、おねがい」
すぐに動き出した優秀な侍女達は、整えたテーブルに横並びで椅子を二脚置いていた。そしてすぐに一礼して二人のティーカップを移動させる。
ミリエラとアネッサは膝が着く程近い距離で並んで座った。アネッサはお茶をコクリと飲んで、そっとミリエラに顔を寄せた。
「ミリエラ様。私、ミリエラ様にずっとお礼を言いたかったの」
「お礼?何故かしら」
「エ、エドモント様が仰ってました。アネッサの話を聞けってアドバイスをしたのはミリエラ様だって」
ミリエラは去年の誕生日の後に行ったピクニックを思い出した。そういえばその時、兄のデリカシーのなさを指摘した事があった。
『婚約者殿が初めて楽しそうに笑ってくれた』と書いてあった手紙のことを思い出して、ミリエラはくすりと笑う。
「お兄様の話を聞いて、あんまりひどいと思ったものですから。お兄様ったら狐狩りにお誘いしたんでしょう?レディの事を分かってなさすぎですわ」
「私、あの時はどうしたら良いか分からなくて……」
「うふふ。そうでしょうね」
「でも……」
アネッサはカモミールティーに映る自分の顔を見て、照れたようにはにかむ。
「エドモント様は初めてお会いした時から素敵で立派な方でした。それが私なんかの話も聞いてくださるようになって、やりたい事も尋ねてくださって。私はとても幸せです」
「え、ええ……?」
「エドモント様は私の声が小さいので、いつも近くにいてくれますの。その優しさに、いつも助けられています」
「そうなのですか。あのお兄様が」
そういえばこの屋敷に入ってきた時も、アネッサはエドモントの真後ろにピッタリ引っ付くように立っていた。食事会での通訳も、彼の優しさだったのだろう。
身内を他人から褒められるのが初めてのことで、ミリエラはむず痒いような嬉しいような不思議な気分だった。
アネッサはお茶で口の回りが良くなったのか、お喋りを続ける。
「物心がつく頃から婚約者がいると聞かされ、はじめは不安でした。でも八歳の時にエドモント様にお会いして、いつも明るくて堂々としているエドモント様に憧れました。こんな素敵な方の妻になれるのだと嬉しくて。お父様に花嫁修業とは何をすればいいのか聞いたりしました」
「まあ。花嫁修業!とっても素敵ね」
「ふふ。本格的なものはまだ早いと言われましたが、お母様がたまに心得のようなものを教えてくださいます」
「私も知りたいわ!」
花嫁、という言葉にミリエラがはしゃげば、アネッサも楽しそうに応える。
声はミリエラ一人のものしか聞こえないが、二人で楽しそうに話す姿は侍女達の心も和ませた。
「ミリエラ様は、エドモント様と一緒でとってもお優しいのね」
「そうかしら?もしそうだとしたら、私の叔父さまのお陰だわ。実はお兄様へのアドバイスも、叔父さまからの受け売りなのよ」
「叔父さま……。ああ、レオン様のことですね」
「ええ。教員養成学校に行ってしまって今は離れ離れなの」
夜が更けマイユが就寝の時間を告げるまで、小さな二人は飽きることなくお喋りをしたのだった。
ミリエラ達がお喋りに興じていた頃、父の執務室は修羅場と化していたらしい。父のエドモントへの説教は三時間に及び、新学期から厳しく指導してもらうよう父自ら学院に挨拶に行く事で収まったようだった。
ただ、父はエドモントに付け加えて言った。
「今年はアレクシス王子が中等部にご進学される。王子を気に掛けて、何かあればお助けできるように心を配るように」
「はい!父上!」
「まずは自分の勉学を第一に考えるようにな」
三日後、エドモントはアネッサを伴って屋敷を出た。
本当ならアネッサは一日で公爵家を辞するはずだったが、本人の希望でエドモントが学院に戻るまでの間滞在していた。
すっかり仲良くなったミリエラとアネッサは両手を繋ぎ、別れがたい気持ちをお互いに伝える。
「いつでも遊びにいらして。私達もうお友達ですもの」
「ミリエラ様もぜひ我が家にいらしてください。まだまだ沢山お話したいわ」
鞄を御者に渡したエドモントも二人に近寄ってきた。
「また夏の休みには戻る!」
「お兄様、お勉強頑張ってくださいませね。高等部でお兄様と同級生になるのは嫌だわ」
「それは確かに嫌だな!やる気が出てきたよミリエラ!」
「それは何より」
その横ではアネッサの侍女が深々とお辞儀をしていた。皆が挨拶を終え、馬車に乗り込んでいく。御者が扉を閉め、馬車はゆっくりと出発した。
「アネッサとお友達になれて嬉しいわ。アネッサなら、きっとお兄様と良い夫婦になるんじゃないかしら。ね、メリサ」
「そうですね。とてもお似合いだと思います」
新しい友人の去っていった方を眺めながら、ミリエラは最初に出来た友人の事を思い浮かべていた。
サーカス団で可憐に舞っていた美しい黒髪の踊り子。
今頃はどこで、どうしているのだろうか。華やかな踊りで観客を魅了しているだろうか。今でもあの姿が閉じた瞼の裏に浮かぶ。
「会いたいわ。ノエル」