12.叔父さまとしばしの別れ
「ねえ、メリサ。叔父さまは数学の先生になるのよね」
ボリボリと音を立ててミリエラが食べているのは、ファウルダース家の料理長ご自慢堅焼きクッキーである。
こういうむさぼり方をしている時はストレスが溜まっている時だとメリサは心得ていた。
「そう仰ってましたね」
「私、数学は苦手なのよ」
存じております。
付け加えて言うと、お嬢様は国語も歴史も理科も苦手です。
唯一ダンスなら得意と言ってもセーフかも知れません。
そこまで心の中で付け加えたメリサは、出そうになる涙をすんでのところで堪えた。
我がお嬢様は齢十歳にして、心根も優しくなったし主人としての器も大きい。しかも煌めくストロベリーブロンドの髪に、思わず目を奪われる整ったお顔立ち。ゆくゆくは貴族社会の中でも評判の淑女になるに違いない。
だから、お勉強はそこそこで良いのです!
流石に声に出しては言えない事を考えていると、ミリエラは両手の拳を胸の前でグッと握りしめた。
「十五歳の学院入学に向けて、数学のお勉強頑張るわ。叔父さまにみっともないところは見せられないもの」
「その意気ですお嬢様!」
「せめて人並みになってみせるわ!」
低い目標設定ではあるが、そう宣言したミリエラの緋色の瞳は燃えていた。ティーセットの横に立つメリサと勉強机の整理中だったマイユは(お嬢様頑張ってくださいませ)と心の底からエールをおくった。
春。出会いと別れの季節。
秋のはじめに教員養成学校に行くとレオンに聞いてから半年が経った。そしてとうとうその時が来てしまった。
ミリエラの十一歳の誕生日直前に、レオンは王宮近くの寄宿舎に入る事になった。屋敷からは馬車で半日もかからない距離とは言え、頻繁に帰ることは出来ないだろうとレオンは言っていた。
「叔父さま、私お手紙書くわ。絶対にお返事くださいませ」
「もちろん書くよ。ミリエラ、元気で」
「叔父さまこそお元気で。バートもいないのですからこれからは身の回りの事は全部ご自分でしないといけませんのよ。きちんとお食事して、お風呂も入って、歯磨きも毎日してくださいませ。学校に遅刻しないように、夜更しはしちゃだめです。叔父さまは知り合いが少ないんだから、周りの方と仲良くしないといけませんわ。いつもハンカチはキレイな物を使ってくださいませ。それから……」
少し腰を屈めたレオンが、おもむろにミリエラの顔を両の手で包んだ。
長々と続いていたミリエラの言葉がピタッと止まる。と同時に、カーッと熱をはらんだ彼女の頬が赤く染まった。
「休暇には必ず帰るよ」
ひとこと言い放ち、馬車に乗り込んだレオンは発っていった。
それから三日後の、ミリエラ十一歳の誕生日。
今度はエドモントを乗せた馬車がファウルダース公爵家の前に停まった。エドモントは去年のミリエラの誕生日以来、こうして長期休暇には屋敷に戻るようになっていた。
「ただいま!!父上!母上!ミリエラ!」
使用人たちの生温かい視線を受けながら、エドモントが屋敷に帰ってきた。いつもどおりに家の者が揃ってそれを出迎えると、エドモントの後ろにびったりと寄り添う少女のドレスの裾が見えた。
ミリエラが首をひねる。
「アネッサ!父と母には会ったことあったな!こっちは私の妹のミリエラだ!あなたと同じ十一歳になる!」
エドモントは真後ろに立っていた少女にグルンと身体を向けて、彼女の肩を掴み前に押し出した。栗色の髪を緩く編んだ小柄な少女が、ふらりとよろけながらミリエラの前に立つ。
「………お……と………す」
「え?」
名乗ろうとしたミリエラは、目の前の少女の口から吐息のような音が漏れたのを聞いて止まる。小さな少女は顔を真っ赤にして、俯いたまま身体だけをミリエラの方に向けて震えながら声を絞り出していた。
「……お初にお目にかかります。ウォード家長女アネッサともうします」
「ご丁寧な挨拶ありがとうございます。私、エドモントの妹のミリエラともうします。いつも兄がお世話……」
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう!アネッサ、ついておいで!」
三回目で聞き取れた自己紹介にミリエラは丁寧な挨拶を返そうとし、案の定エドモントに邪魔をされて初対面は終了した。
区切りの誕生日以外は公爵家の令嬢といえど簡略化した身内のパーティーに留めるのが習わしだ。
今回はファウルダース家の面々にエドモントの婚約者アネッサを含めただけの人数での食事会だった。とはいえ広い食堂には父が用意した赤い薔薇が置かれて華やかさを醸しだし、料理人達が腕によりをかけたご馳走の数々が振る舞われた。
「アネッサ様のことはお名前だけ伺っておりましたので、早くお会いしたいと思っておりました」
「…………も……」
「私もです!だって!」
お前が通訳なのか。
ミリエラと使用人達の心がひとつになった。
「兄はうる……元気過ぎて、大変じゃありませんこと?」
「そ…………」
「そんなことありませんって!」
この通訳。果たして信用してもいいのだろうか。
「それよりも!父上、母上!実はご報告があるのです!」
メインの肉料理を丁寧に口に運んでいたエドモントはナイフを持つ手を止め、両親の方に向き直った。
両親も何のことか知らないらしく、息子に次を促す。
彼はチラッとアネッサの方を見たあと堂々と告白した。
「実は!留年をしてしまいました!」
両親も部屋で給仕する使用人たちも皆一様に固まり、顎が外れるかというほど口を開けてエドモントを見つめた。
ミリエラも当然、堂々とした兄の顔を呆然と見つめるしかなかった。
王立学院は主に貴族子女の為の学校で、九歳からの初等部、十二歳からの中等部、十五歳からの高等部の三つで構成されている。
家を継ぐ嫡男や才に長けた子どもは初等部から、王宮での仕事に就くなら中等部から、貴族としての知識や立ち居振舞いを学び、交流を図る目的なら高等部からの入学になる。基礎的な学問は家庭教師に学ぶのが常識だ。
エドモントは今年中等部の二年になる筈なのだが。
「もう一度、中等部一年をすることになった!」
誰も何も言わないので、エドモントは丁寧に言い換えてくれた。それを聞いた両親は、ニ撃目を食らった体でガクッと肩を落とす。
「どうしてそんなことに」
「父上、申し訳ない!色んな教科の補習に呼ばれていたのですが、剣の稽古が楽しくてつい!」
「つい、じゃない!!」
子ども達に甘々な父が、初めてエドモントにつっこんだ。
ミリエラは「王立学院に留年ってあるの……」と地味に震えている。残念ながらミリエラも一般科目はヤバい成績を取る自信があった。
「……………って、…………す」
「でも最近は、王立学院で留年は珍しくないらしいよ!アネッサのお兄様が在学の頃にも毎年何人かは留年していたって!」
もしかしたら「留年は珍しい事じゃない」と証言してもらうための婚約者帯同だったのか?という考えが皆の頭に過ぎる。
だがもしそうだとしても悲しいかな、通訳しているのが留年した本人である時点で、どう転んでも言い訳にしか聞こえないのであった。




